2024.03.22

「本と旅と焼き物と つないだ先にあるものは」【村上空】

なりわい 村上空
「本と旅と焼き物と つないだ先にあるものは」【村上空】

「自分はこれが好き」とはっきり言える何かを、あなたはいくつ持っているだろうか。

たくさんの「好き」を持っている人、いくつかの「好き」を大事にしている人、ひとつの「好き」に一心に打ち込む人、それぞれにいるだろう。

「わたしは『本』『旅』『焼き物』が好きです。その3つがあればいい」

そう言って笑う村上空(むらかみ・そら)さんは、自分が「好き」だと思ったことに、とことん真っすぐに向き合ってきた人だ。
その空さんが「有田焼はおもしろいということをもっと伝えたくて」、東京から有田に帰ってきたという。

地元の人にとってはあまりに身近で、いつもそこにある有田焼。
今、そのおもしろさを伝えたいと思ったのは、なぜなのだろうか?

 

空さんが生まれ育ったのは、伝統ある窯元や陶芸家が居を構える、有田町の南山と呼ばれる地区。かつては佐賀藩だった有田と、隣接する大村藩および平戸藩の三領の境を示す「三領石」を囲む森にほど近い、自然豊かな場所だ。

空さんが子どもの頃は、兄や友人たちと近所の渓流や神社に集まり、日が暮れるまで遊んだ。川に落ちている陶片やハマを拾って集めるのも、近所の作陶家の作業場に遊びに行くのも、空さんにとってはごく自然なことだった。

「他に子供が遊ぶような場所が無かったので。夏は川で泳いだりスイカを冷やしたりして楽しかったし、今見てもいいところだなと思います」 

日々積み重なる有田の暮らしの風景が、知らず知らずのうちに空さんの内に染みこんでいったのかもしれない。

まだ肌寒い今年2月の初め、思い出深い生家のテラスで空さんのお話を伺った。

 

有田焼に囲まれて育った

父は陶磁器販売の商人で、母は絵付けの職人。空さんの周りにはいろいろなかたちで、いつも『有田焼』があった。有田の窯業界のど真ん中で暮らしていたともいえる。
とはいえ、空さんの家には外からの風がいつも吹いていたようだ。

「実家には、いつも様々な業種の人が出入りしていました。敷地内に、商品の在庫を保管する広い倉庫があって、空きスペースを父が人に貸していたからです。一時は造船業の方が入り、倉庫の天井まで届く大きな船が造られていたこともありました」

「母がキャラクターをデザインし、それをプリントした食器がものすごく売れて、倉庫がその在庫でいっぱいになっていた時代もあります」

有田焼の世界には、伝統を大事にしながらも、時代に合った新しいものを作り広めていく気風がある。空さんの家も例外ではなかったようだ。

お母さんに似て、自身も絵を描くことが昔から好きだった空さん。高校の進学先は、迷いなく有田工業高校を選んだ。

「希望は有工(有田工業高校の略称)のデザイン科一択でした。セラミック科があるので、家業が窯業の子もほとんどが有工に進学していましたね。いざ授業が始まると、教わる技術や知識のレベルが高く、実践的で驚きました。陶磁器技術者の養成学校を前身としているからなのかも。100年以上の歴史の中には、白山陶器の森正洋さんや、文化勲章を受章された青木龍山先生などそうそうたる卒業生の方たちがいます。

同じ有工出身の小松さんも同意してくれたのですが、そこで学んだことは、その後の私の価値観にとても大きな影響を与えました」

美と知の世界の探求は限りが無く、正解は一律ではない。空さんが有工で学んだのは、「既成の考え方に捉われない」生き方だったのかもしれない。

“有田ではない場所”をどうしても見てみたくなった空さんは、卒業後の進路に東京での就職を選択する。

 

有田を飛び出し世界の空を見て

「有田を出てしばらくの間は、外の世界が楽しすぎて帰省すらしなかったので、いつか帰ってくるなんて考えもしませんでした」

単身上京し、パティシエを数年間経験したあとに転職、世界中の切手を輸入する会社に入った。配属された部署では、世界各国の切手を年代種類問わず収集し、日本の切手コレクターと交渉して売買する役割を担った。

切手の世界は奥深い。図案や印刷の出来は国や時代によっても違う。そこに何が描かれているかで、歴史や風土、政治など、その切手が発行された当時の国の断片を垣間見ることができる。

「世界中の切手を毎日眺めていたら、それらが生まれた国々を自分の目で見たいという気持ちが募り、海外へ旅に出るようになりました。絵画のような東欧や北欧の切手に惹かれ、バルト三国へ。それからは、興味をもった国があれば一人でも飛んで行きました。私たちから見れば観光地や遺跡のような特別な場所でも、そこで生活をする人がいる。その営みや、路地を探索して建物群を眺めるのが好きで、今でも年に一度は必ず行きます」

「最近よく行くのは韓国や台湾。どの国に行っても本屋は必ず覗きます」

日本すら飛び出し世界を旅し、東京で「自分が好きなこと」に没頭する空さん。その目がまた有田へと向くまでには、もう少し時間がかかる。

 

「君から焼き物を取ったら何も残らないから」

「わたしには兄がいるのですが、彼も上京していて東京の古書業界で働いていました。数年間の修行を経ていよいよ古本屋として独立すると兄から聞き、切手の仕事を辞めて私も古本販売の仕事を手伝うことに。古書組合に入り、本の入札に参加したり同業者と欲しい本を競りあったり。古本販売の知識と経験を積んでいくうちに、どんどんその世界にはまっていきました」

日本全国から古書を買い付け、求める人に繋いでいく。連綿と古本販売を続けていく中で、空さんに転機が訪れた。

「その後、仕事で知り合った方と結婚したんですが、夫の専門は美術工芸書なので、陶磁器関係の本もたくさん扱っていて。『これは有田にも必要としている方がいるんじゃないか』と思い、有田陶器市の期間中に古書市を開いてみることにしたんです」

上有田駅近くの陶磁器店に美術や陶磁器の専門書を置かせてもらい、小さな古書市を開いたのは、有田焼が生まれて400年となる2016年のこと。

「予想以上にいろんな方が来てくれました。主に購入していってくれたのは陶芸家の方なのですが、すごく興味をもってくれて、『古唐津の本はなか?』『李朝の本はある?』とリクエストをされて、それを揃えてまた有田に来ると、とても喜んでくれて。そうやって続けていくうちに、あらためて地元の方との交流が生まれていき、次に、次にと続いていきました。本を売り始めるときは一人なんですが、買ってくれる人がいると二人になって、どんどん人が繋がって、いつの間にか大勢の人と知り合って友達になれます」

空さんが灯す屋と出会ったのは、ちょうどその頃だ。

「『うちやま百貨店』が始まった年に、代表の佐々木さんに声をかけていただいて、絵本屋さんとして参加しました。そのときに知り合った方たちの中には、今でも交流が続いている人もいて、近くに用事があるときは会いに行ったりしています。出会った頃は大人しかったのにだんだん弾けていって、今ではやりたいことをとことんやっている人もいたりして。あのときうちやま百貨店に参加できてよかったなと思います」

空さんと灯す屋の繋がりは今でも、灯すラボで不定期に開催されるポップアップイベントへの出店という形で続いている。古本の買取りも常時しているので、「気軽に声をかけてほしい」とのこと。

「有田に帰ってくるようになってから、地元に残っている同級生と話す機会も増えました。親が自営の窯業関係者だと、跡を継ぐかどうかをどこかで必ず決めなければなりません。わたしの同級生は、自分で継ぐと決めて地元に残った人が多いんです。だから、とても意欲的に有田焼の未来について考えていました。

有田焼の後継者不足や、それに伴う技術の断絶のことは母からも聞いてはいたんです。みんなもやはりそこに強い危機感をもっていて。けれどそれを悲観的に捉えるんじゃなくて、ここで生まれ育った自分たちがその問題に立ち向かっていこうと前向きでした。何代も続く窯元の跡継ぎの友人が言っていた『これまで先人たちが身につけてきた知恵を知識に変えて、次の世代に繋げていかんばのう』という言葉が、ずっと耳に残っています」

出身地を尋ねられたときは「佐賀」ではなく、いつも「有田」と答えてきた空さんにも、その想いは共感できた。

「知恵や歴史が詰まっていて、有田焼ってすごくおもしろい。なのに、どうして後継者がいないんでしょう。もちろん簡単な仕事ではないのは知っています。子供の頃、母が夜な夜な請負の絵付け仕事をしていた姿も見ていますから。けれど、それ以上におもしろさが勝ると思っているのですが、そういう魅力的な側面が次世代にちゃんと伝わっていないのかもしれません」

縁が繋がって有田を頻繁に訪ねるようになってから、自分ができることはなんだろうかと空さんは考え始める。そんな折、陶磁器の商社を営む同級生のところへ専門書を卸しに行き、立ち話をしていたところ、営業の人材を募集していることを知った。「わたしの役割は、これかもしれない」と感じた空さんは、有田に戻ることを決めた。

「タイミングもよかったんです。その頃ちょうど、『東京蚤の市』という、参加権を得るのがとても難しいイベントの出店枠を取って、参加できた後でした。古本屋として働き始めて12年、その長年の成果というか、結果を出せたんじゃないかと古本販売に対して一区切りつけることができて。これで本の仕事だけではなく、焼き物の仕事も始められるぞ、と思いました」

 空さんの夫は東京に残り、古本屋の仕事を続けている。

「有田に戻るつもりだ、という話を夫にしたら、『君から焼き物を取ったら何も残らないからね』と笑っていました。彼はわたしの一番の理解者なんです」

 

有田に帰ってきたら、おもしろい人がいっぱいいた

有田に帰郷してからの空さんは、飲食店へ向けて器を提案するコーディネーターの仕事をしている。料理に寄り添い引き立てる器を提案するため、有田焼のみならず他県の焼き物の産地にも出向き、窯主や職人と対話をして知識を蓄えながら、新しいネットワークを作り上げているところだ。空さんがこれまでに得てきた経験も存分に生かされている。

「焼き物の職人さんと話をすると、いつまで経っても話が途切れなくて。伝えたいことがたくさんあるんでしょう、きらきらと輝いて見えますね」

「達人といってもいい技術をもっているのに、人里離れたところや自宅の片隅で営んで、生涯表舞台に出てこない職人さんがいることも知りました。そういう方だけがもっている技法は、受け継ぐ人がいないとそこで失われてしまう。有田や肥前地区、ひいては焼き物の産地には、本当にすごい人たちがたくさんいるということを、もっと知ってもらいたいです」

 

本と焼き物で世代を繋いでいく。空さんの思い描く未来

 自分がこれまでにやってきた古本の仕事も活かせるのではないか、と空さんは考える。

「本って知識のかたまりで、ネットには決して出てこない様々なことも記してあります。何気ない焼き物でも、その色かたちのものが突然現れたわけではなく、そこには先人たちが培ってきた知恵や技術が込められています。それを知っているかどうかによって出来上がるものや伝えられることも違ってくる。焼き物の世界にいる若い方にはぜひ本を手に取ってほしいです」

そのために、有田に古本屋を開きたい。焼き物の勉強ももっとしたい。また旅にも行きたい。やりたいことがたくさんあって忙しいと嘆きながらも、空さんは楽しそうだ。

「本や焼き物を通して、前の世代と次の世代を繋げられたらいいな。それが有田で生まれた有田人としての、わたしの宿命かな」

『宿命』という強い言葉は『楽しさ』からほど遠く感じられるが、空さんの表情に深刻さは感じられない。あくまでも自然体だ。

「『空』という名前には『人に縛られずに自立し、自由に生きる人になるように』という思いがこめられているそうです。その名前のとおり、わたしは自分が好きだと思うことをずっと続けてきたし、それしかしていません。
結局、有田が好きなんです。これまでに帰省した際に、知人も一緒に連れてきて佐賀を案内したのですが、みんな、『佐賀はいいとこだね、食べ物も美味しいし、自然もたくさんあるし』と言って、わたしを『佐賀の観光大使』と呼んでくれました。来てくれた人が有田を好きになって、ちょっと住んでみたり、有田焼に触れたりしてほしいですね。知れば知るほど奥深くて、おもしろくなってくるから」

「好き」なことをひたむきに続けることは、意外とむずかしい。上手くできるだろうかと尻込みをしたり、周りの目や評価が気になったり、続けていく自信が無くてやめてしまうことだってあるかもしれない。

けれども空さんは、そんな弱さを吹き飛ばす芯の強さや好奇心をもっていて、好きなことには掛け値なしに自分を捧げることができる。そんなおもしろい人の周りには、これからもおもしろい人が集まってくるに違いない。

さて、空さんの描く「おもしろい未来」とはなんなのだろうか?
尋ねてみると、空さんは考え考え、何度も言葉を変えながら答えてくれた。

「焼きものは『作る人』『売る人』『買う人』『使う人』、それぞれがいないと成り立ちません。その人たちがちゃんと繋がれたら、みんなでわくわくできるんじゃないでしょうか。有田焼がこれからもっと盛り上がって、みんなでおもしろい未来をみることができたらいいな」

みんなが楽しい未来を描くことができたなら。

壮大で明るい夢に向かって、空さんの旅はこれからも続く。

文章:高蔵陽子 写真:壱岐成太郎(一部本人提供)

村上空のプロフィール

有田町南山出身。佐賀県立有田工業高校を卒業後、上京。古書販売の世界に12年どっぷりと浸かった後、有田へ帰郷。現在は田代陶器店に勤務し、器のコーディネイトと焼き物のおもしろさを広めている。趣味は旅行。まだまだ行ってみたい国がある。