2023.02.11

人とのつながりを大切に。空き家を売るだけじゃない、幸せをつくる不動産屋さん【西部不動産・川久保剛】

なりわい 川久保 剛
人とのつながりを大切に。空き家を売るだけじゃない、幸せをつくる不動産屋さん【西部不動産・川久保剛】

『人とのつながりを大切にする』とは、よく耳にする言葉かもしれない。
でも私たちは、普段それをどれぐらい意識して過ごせているだろう。そして、人とのつながりがもたらすものとは何だろうか。

今回お話を伺った西部不動産の川久保 剛(かわくぼ ごう)さんは、上辺だけの言葉ではないその大切さに改めて気付かせてくれた。

川久保さんは、お父さんが創業した不動産会社である西部不動産の後継ぎとして働いている。取材の際には川久保さんの希望で、これから空き物件インフォメーション(有田町版空き家バンク)に登録するという物件に案内していただいた。

オーナーこだわりのリノベーションが施された部屋を、川久保さんは細やかに紹介してくれる。それは単なる商品としての説明とは違って、オーナーの人柄やここに人が住まうのだというイメージとぬくもりが感じられるものだった

川久保さんにとっての不動産業は天職に思えるが、実は前職は、子供の頃から好きだったファッションに携わるアパレル業。家業を継ぐという意識は全くなかったそうだ。でも、アパレル時代の話も今の話も、川久保さんはとても楽しそうに話してくれる。その秘密が「人とのつながり」にあるらしいのだ。

サッカー少年が夢中になったのはファッションアイテムだった

子供の頃はサッカー少年だったという川久保さん。高校生の時には全国高校サッカー選手権大会にまで出場している。

「新しいシューズを買ってもらうとみんなは喜んですぐに履いていたけど、自分は枕元に置いて数日眺めてたんですよ」

サッカー少年が夢中になったのが、服や靴などのファッションアイテムだ。

「小学生の頃から洋服が好きで、父のジーンズをこっそり自分で加工したりするのが好きだったんですよね。好きな服を買いに行くのは佐世保でした。佐世保には米軍基地もあったり、文化的にも他の町とは違うので。中学生になると佐世保に友達が増えてしょっちゅう行ってましたね」

もっと大好きな服の世界に触れたい。その想いから、早く有田を出て都会に行きたいと思い続けていたそうだ。

18歳の時に福岡のスポーツインストラクターの学校に進学。夢だった都会での生活が始まった。

「高校3年間、厳しいサッカー部で頑張っていたからその反動で弾けちゃったんでしょうね。学校に行かずクラブで踊るみたいな生活をずっとしてました」

結局学校を辞めることになったのだが、転機が訪れたのは、福岡で出来た友人の実家に遊びに小倉へ行ってからだ。たまたま近所にあった服の店をとても気に入り、通うようになる。年が近い店長ともすっかり意気投合した。

「その店が好きになって、店長の家に寝泊まりして一緒に出勤みたいな生活をしてたんですよね。そうしてたら1年経って、社長から『もうお前ここで働け』って言われてそのまま就職した感じですね」

大好きな世界を、とにかく夢中で駆けた

都会は勿論、海外にも行きたかった川久保さんにとって、買い付けで海外出張もあるアパレル業はうってつけだった。

「2ヶ月に1回は行ってましたね、ロス、ニューヨーク…あとはラスベガスで年に3回マジックショーっていう世界の洋服ブランドが集まる展示会がありました」

数億円かけて会場の中に建物を建てるこのゴージャスな展示会に、小売店が参加出来るケースはほとんど無い。しかし川久保さんの働いていた店はメーカーとの関わりが深く、招かれて毎回参加していた。縁が繋がっていなかったら体験していなかった世界ということだ。

「8年間ぐらい、マグロみたいに動きっぱなしの状態でした。夜も寝ないで遊びに行ったりとか。遊びと言ってもお客さんに招待されてクラブイベントに顔出したりとかだから仕事と変わらない感じで。重なった時は4軒ぐらいハシゴになることもありましたね」

在庫確認をしながらうっかり寝てしまったこともあるほど睡眠不足の毎日だったが、それでも大好きな世界でがむしゃらに走るのは楽しかったと言う。そこからどうして、有田に帰ることになったのだろうか。

「自分でもよくわからないんですけど、好きだったけど走り過ぎてちょっと疲れたなぁと言うか、電池が切れたんですかね。体力的には問題なかったけど気持ちの上でなんかちょっと一回リセットしたいなぁみたいな」

一旦田舎に帰ろうと考えた川久保さん。その時には実家を継ぐというイメージも浮かんでいたそうだ。

「親父に服屋辞めて帰ろうかなって話をしたら、後継ぐか? こういう話も来てるけどやってみるか? って言われて、いきなりアパレルから新聞屋になりました」

有田に帰って不動産屋ではなく、新聞屋。お父さんの知り合いの物件で新聞販売店をしていた人が地元に帰ることになり、ちょうど後を任せる人を探していたタイミングだったらしい。

「後を継ごうっていうイメージはあったけど、不動産業をしつつ違う事業部で色んなことが出来るんじゃないかって話をしていたので、西部不動産の子会社として新聞屋を始めることになりました」

気付いたら10年続けていたという新聞販売店。朝は早いし休刊日も月に一回しかなく、アパレル時代とはまた違う忙しさだったが、やっておいて良かったと川久保さんは言う。

「新聞屋として関わっていたお客さんから、不動産屋になってもそのまま相談が来たりしますね。山持ってるけど売れないかとか空き家貸して良いよとか。10年間は無駄じゃなかったと思います」

信頼関係を築けていたからこそ、そうやって気軽に相談を持ちかけてもらえるのだろう。

「人と接するっていうのが好きなんですよね」

そう言って川久保さんは笑う。

空き家を売るだけじゃない、不動産屋さん

川久保さんと灯す屋の関わりと言えば、まずは空き物件見学ツアーだ。川久保さんは、ただ空き物件を紹介するだけではなく、そこにこれから住む人の暮らしまでを見据えている。

「普通の不動産屋さんだったら多分売ればそれまでなんでしょうけど、やっぱりそこ(暮らし)に関わっていくのが重要なのかなって。最終的には人と人とのつながりじゃないですか」

移住者がいてもその後のケアがなければ数年で出て行ってしまうこともあると川久保さんは言う。

一番大事なのは移住を応援したいという真摯な気持ちじゃないですかね。良いことだけではなく、嘘の無いように周りの状況を伝えることも大事だと思ってます」

特に起業のための移住となれば、人生の大きな決断でありリスクもあるだろう。川久保さんはそこも含めて、可能かどうかを移住希望者とともに話していく。例えば飲食店の開業を希望する人に対して、事業計画書の確認をお願いすることもある。

有田では年々空き家が増えているが、オーナーにとっても売るのは簡単な話ではない。不用品の処分だけでもかなりの出費である。そこで昨年川久保さんと灯す屋は、空き家の不用品を必要な人に持って帰ってもらおうという企画を行った。これによって、これから新生活を始めようという人にとってもオーナーにとってもメリットがある。まさしく、人と人とのつながりによって解決しようというわけだ。

人とのつながりが新しいものを生み出していく

どの仕事の話をする時も、大変さはあるけれども川久保さんは楽しそうだ。その理由は人とのつながりを大切にしてきたことにあるのではないかと川久保さんは考える。

「人と繋がっていくことで新しい物が生まれる。下の世代にも、世代に関係なく人と話したり人と繋がれば新しいことが出来るよってことを教えたいですね。つながりの中で情報を得たり、コミュニティに入れば、商売だって楽しく出来ると思うんです」

そもそも小倉で憧れだったアパレル業界に入れたのも、出会った縁を川久保さんが大事にしたからだ。最初は2人しか知り合いのいなかった小倉も、有田に帰る頃には知り合いだらけで地元のような感覚になっていたと言う。

「ほぼ毎日ウロウロしました。色んなお店に顔出して、名刺渡して…ずっとしてましたね」

「人とのつながりの中で助けられて来たし、自分の人生の中でそれが重要かなと思います」

川久保さん自身が描いている今後やりたいことは、タイミング良く整備された土地を利用してのキャンプ場や、空き家を会場として使ったアートイベントなどだ。そしてそのどれもが、誰かと一緒に作っていくものである。アートイベントならアパレル時代に小倉で出会ったアーティストにも声をかけようと考えている。

そう、川久保さんの大事にしている人とのつながりは、距離で途切れてしまうものではなく全てがちゃんと繋がっている。働いていた洋服のお店とは今でもとても親しく付き合いがあり、アパレルと焼き物のコラボレーションの話も出ているそうだ。

「発想力があんまりなくて妄想力はあるんですけど、自分の頭の中に色んな繋がりがあれば、あの人とこの人でこういうことが出来るんじゃないかとか繋げられるじゃないですか。自分の発想に繋がるのってそっちなんですよね」

みんなが幸せになれるように、有田の人とつながっていきたい

「自分の家族が好きなんですよね」

あなたの描くおもしろい未来とは?という質問に対して、川久保さんは照れ笑いしながらそう言った。

「今、子どもの成長を見るのが楽しくて。子どもたちが大きくなった時に世の中どうなっているかなって。みんなニコニコ出来てたらいいかなって単純にそれだけですね」

人とのつながりというと新しい関係を作る方ばかりに目が行きがちだが、まずはいつも隣にいてくれる人たちこそ、忘れてはいけない大切な繋がりだ。

「最終的にはみんな幸せに生活出来てたら良いかなっていうのが最終目標かなって思います。あとは有田が、利便性だったりの発展より、『これが有田ですよ!! 』っていうようなパワーのある町になって欲しいというか、していきたい感じはあります」

行政の手が回らないところを自分たちが頑張って町を元気にしていきたいと川久保さんは語る。

「もっと人と関わっていきたいですね」

川久保さんだからこその説得力でその言葉がしみじみと響き、笑顔で繋がる未来が見えた気がした。

 

聞き手、書き手:鈴木 愛子
写真:壱岐 成太郎

 

編集後記

ゴウさんと出会ったのは、4年ほど前だろうか。初めの頃はあまり覚えていない。
一見怖そうな雰囲気だが、実は優しい。いや、ほかの誰よりもとにかく優しい。
そんな大好きなゴウさんのことを、こうやって取材し多くの人たちに伝えられることを心底嬉しく思う。

記事を読んでもらって分かる通り、ゴウさんはとにかくオシャレでかっこいい。
特に靴が大好きで、その収集癖のせいで家族からは怒られてばかり(笑)。
そんな家族をこよなく愛するゴウさんを、ファッションスナップ風に仕上げました。
撮影場所は、10年以上前に廃業したとある窯元さんの工房。
いま、ここで、ゴウさんとこのまちとの記録です。(灯す屋 S)

Cap COMESANDGOES
Knit ONEFIFTH
Hoodie Maison Martin Margiela
Pants Yoko Sakamoto
Shoes MANEBU

Photo Seitaro Iki

川久保 剛のプロフィール

新潟生まれ、有田町育ち。佐賀学園高校卒。
専門学校を卒業せずに(笑)、小倉のアパレル会社に就職。10年勤め、地元に帰郷。不動産を継ぐと思いきや、新聞販売店を経営し12年寝ずに頑張る。満を辞して、西部不動産に就職。現在に至る。