2024.04.20

みんなもっと自分のことを話せばいい。チョン・ユギョンさんが描くノイジーで豊かな世界

クリエイティブ チョン・ユギョン
みんなもっと自分のことを話せばいい。チョン・ユギョンさんが描くノイジーで豊かな世界

2月9日〜12日の4日間、有田町のまちなかで開かれた個展「大村焼」。

アーティストのチョン・ユギョンさんが有田町に合計約3ヶ月間滞在し、フィールドワークや制作を重ねて実現したものです。

NPO法人灯す屋は、滞在時の宿泊場所の提供や有田町内の人たちとのつなぎ役という形で、ユギョンさんの活動をサポートしてきました。

滞在中はユギョンさんもわたしたちもバタバタしていて、あまりじっくりと話せていません。でも、有田で感じ考えたことを、個展という形(しかも今回は、ユギョンさんにとっても自身初の個展とのこと!)で表現してもらえたことが、じつはとってもうれしかったのです。

灯す屋の活動や灯すラボを通じて、こんな出会いをもっと生んでいきたいし、ユギョンさんのこともあらためて知りたい。

そこで、会期直後の2月13日に時間をもらって、ゆっくり話を聞かせてもらうことに。

取材場所は、個展会場となった「まちのオフィス春陽堂」。まだ撤収前の絵画作品に囲まれながら、ユギョンさんはにこやかに迎えてくれました。

 

自分って一体なんだろう?

在日コリアン3世のユギョンさん。3人姉弟の末っ子として、兵庫県神戸市で生まれ育ちます。

在日コリアンとは、日本の植民地支配によって日本に渡り、戦後もさまざまな事情から日本で生活を送ってきた朝鮮の人々のこと。

およそ100年前の関東大震災では、デマをきっかけに多くの在日朝鮮人が虐殺されたり、結婚や就職の障壁となるような制度があったり。現代においても、納税の義務は課される一方で日本における参政権を認められていないなど、在日コリアンを取り巻く環境は不安定な状況が続いてきました。

「ぼくの場合は、怒りが制作のモチベーションになることが多くて」

怒り。

「なんでやねん、この状態っていう。たとえば朝鮮籍。これは戦後、日本政府から外国人登録令というものが発令された際に、便宜上の記号としてつけられたものなんです。国籍ではないので、海外に行くときにかなりめんどうで」

そこで、アメリカ・ニューヨークへの出張を機に、韓国籍を取得。めんどうな手続きから解放され、一件落着。

…と思いきや、今度は新たな問題が。

「2017年から、韓国に拠点を置いて制作をはじめました。するとその翌年の法改正で、韓国で3年間暮らした在外国民にも兵役の義務が課されることになってしまった」

※「在外国民2世」とは、韓国外で生まれた人(6歳以前に国外に出国した人を含む)で、18歳になる時まで継続国外に居住し(初・中等教育法第2条の規定による学校で通算3年の範囲で修学した場合も国外で継続居住したものとみなす)、父母および本人がその地の永住権(または永住権制度のない国で無期限在留資格。5年以上の長期在留資格を含む)を所持している人を指します。

「友だちと話したり、ご飯を食べたり、日常生活を送ることに問題はありません。でもある日突然、不自由さが立ち現れる。そんな状況に直面するたびに、自分がじつは不安定な存在なんだということを実感させられるんです」

韓国にルーツをもちながら、日本で生まれ育ち、朝鮮学校で学んだユギョンさん。

自分にとって、祖国とはどこだろう? 自分は一体、何者なんだろう? なぜ、ここにいるんだろう?

揺れ動くアイデンティティを抱えつつ、制作を続ける日々。そして2020年の12月に、韓国での兵役を避けて日本へ移ります。

 

戦争と文化、日本と朝鮮が交わるところ

次なる拠点に選んだのは、地元の神戸でも東京でもなく、九州・福岡でした。

「住んだことがないところに住みたくて、候補にあがったのが九州か北海道だったんですね。ぼくは免許を持っていないので、雪降ったりしたら大変そうやなと思って(笑)、それで九州に絞りました」

はじめは直感で選んだ土地。ただこの選択も、その後のユギョンさんに大きな影響を与えることとなります。

「九州について調べていくと、アジアとの交流や、朝鮮に関わる歴史がすごく多い。そこに住むことで、自分の制作とか、生きていくうえで、いろんなヒントをもらえるんじゃないかなって考えを持つようになりました」

たとえば、李参平。豊臣秀吉の時代、朝鮮出兵の際に日本へ連行された朝鮮人の陶工で、のちに有田焼の生みの親となります。今では焼きものの神様として、有田で大切に祀られている存在です。

また、長崎県の大村市にはかつて、大村収容所という施設がありました。朝鮮戦争が勃発したあと、不法入国者や犯罪者とされる人々を収容・送還する目的で設置した施設で、現在は大村入国管理センターと名称を変えて運営されています。

この収容所のあった一帯は、秀吉の朝鮮出兵時に戦利品として連れ帰った虎を放った原っぱであることから、放虎原(ほうこばる)と呼ばれていました。朝鮮において、虎は「強さ」の象徴とされる生きもの。その虎を捕らえて放った歴史と、朝鮮の人々を管理下に置いた近代の歴史には、どこか重なるものがあります。

戦争が負の歴史であることは疑いようもないけれど、奇しくもそこから芽吹き、広がった文化もある。負の遺産として、尾を引く問題もいくつも残っている。九州というフィールドは、多面的な歴史の跡がさまざまな形で表れている土地なのでした。

「在日コリアンに関して、近年多く語られるのは戦後の課題です。でも九州には、それ以前から戦争や文化交流を通じた朝鮮との接点がある。400年ぐらい前から今の自分までを、一本の線でつなぐことができるわけです」

「ぼくたちはつい、戦後数十年という歴史や、対日本、対韓国といった狭い視野のなかで、ぐるぐると考えてしまう。そこを数百年という長い歴史のスパンで、アジア共有の課題として捉え直せたら、もっと大きく、みんなでぐるぐるできるんじゃないかな?って。そういう考え方になってきたときに、ちょっとこれは作品になるかもしれないぞ、と思いはじめました」

バラバラに存在していた歯車が噛み合い、回り出すように。アーティストとしてのユギョンさんの活動は、九州にやってきたことで一段と前に進みはじめます。

 

架空の焼きもの「大村焼」が生まれるまで

ユギョンさんが有田に通うようになったのは、2023年の2月末ごろ。写真家の松本美枝子さんが2017年に有田について書いた記事を読んだのがきっかけでした。

「自分はあくまでもよそ者だけど、パッと来て作品をつくって帰る、っていうのはいやで。ちゃんとまちの人と交わりながら制作したいと思ったんです。とはいえ、いきなりよそ者が来たら警戒するだろうし、作品のコンセプト的にも政治的な色がつく。あいだに誰か入ってもらったほうが、地元の人も安心だろうなと思って、灯す屋さんに連絡をしました」

そんなユギョンさんの連絡を受けて、灯す屋代表の佐々木さんは「うれしかった」と言います。どんなふうにうれしかったんでしょう?

「連絡をもらったのが、ちょうど灯すラボをはじめたタイミングで。有田での自分たちの役割ってなんだろう?って考えたときに、もっとおもしろい人たちが来れる余地があるんだから、その入り口をつくりたい、受け皿になりたいなと。そう思っていたときに、まさにそういう人が来てくれたなと感じたんです。あとは単純に、メールからめちゃくちゃ印象がよかった。すごくいい人だったから、この人のことは応援したいなと思いました」

それからは、有田の人をつないだり、たまに一緒にご飯を食べたり。ゆるやかな制作サポートがはじまりました。

過去にアーティストインレジデンスの経験もあるユギョンさん。一方でアーティストの受け入れが専門ではない灯す屋でしたが、それゆえの近すぎず遠すぎない、ほどよい距離感が心地よかったと滞在の日々を振り返ります。

「有田の人は、ぼくの人生関係なしに自分の生活があって、歴史があるわけだから、ポッと出のわたしが来て活動するのは失礼かもしれない。そうならないように、応援したくなるようにと思っていました。灯す屋さんのおかげで、短い時間でも地域に馴染んでいけて、とてもありがたかったですね」

有田を訪れて、ユギョンさんがまず着目したのは、陶製手りゅう弾の存在。第二次世界大戦末期、あらゆる物資が不足するなかで、鉄の代わりに陶器を使った手りゅう弾がつくられました。

これを「文化と戦争のあいだにあるもの」と見立てたユギョンさんは、町内の型屋である山辰整型所、同じく町内の窯元・幸楽窯を訪ね、協力を得ながら制作にとりかかります。

「毎日自転車で通って、鋳込みで一日20個の作品を1ヶ月間つくり続けました」

「有田で語られていない部分、語りづらかった歴史があるんじゃないか。そこにぼくの問題意識を接続することで、社会からこぼれ落ちて抜けているものの話ができるんじゃないかと思ったんです」

さらにその考えを発展させて、「大村焼」という架空の焼きものを構想。今回有田町で開かれた個展では、焼きものの展開図のような絵画をはじめとする9点の作品とともに、陶製手りゅう弾や制作過程で使われた型などを展示しました。

 

アートにはアートの分際がある

その作品のなかに見え隠れするのは、「自分」という小さな個人史と、「朝鮮と日本」という大きな歴史のあいだを行ったり来たりしながら、試行錯誤するユギョンさんの姿です。

「いろいろな人がいる社会って、管理する人にとってはめんどうだから、線を引く。そうすると、多様な声が失われていきます」

「管理のラインをはみ出る人は、場違いだと言われたりもするけど、だからこそ固定化された思考に揺さぶりをかけられるんじゃないかと思うんです。ぼく自身が揺れているように。そういう展示空間をつくりたいと思って、この個展を開きました」

作品に触れることで、固まりかけた価値観が揺さぶられる。それまで気にも留めなかった事柄について、ふと疑問が浮かび上がる。そうして新たな視点や問いが投げかけられることによって、人々のあいだに議論やコミュニケーションが生まれる。

そんなふうに物事を動かしていく力が、アートにはあるのかもしれませんね。

「そうですね。でも一方でぼくは、アートにそこまで期待をしていなくて」

期待していない?

「アートにはアートの分際がある、と思っているんです。今は自分と向き合って作品をつくっているけれど、デモや社会運動が必要なときには参加します。アートに期待しすぎないようにしています」

「そもそも作品で言えることには限りがあって。ピラミッドだとしたら、先端のちょん、って部分でしかない。その土台には、語りきれない話がたくさんあって、そっちを考えることのほうが重要だと思うんです」

 

みんなもっと騒げばいい

となると、作品をつくる意味ってなんでしょう? ユギョンさんは決して口下手ではないし、むしろお話を聞いている限り、語って伝えることが得意な人だと思うんです。なぜアートという手段を選んでいるのでしょうか。

「たしかに、何なんですかね…。ひとつ言えるとしたら、ぼくはいつか死ぬけど、作品はそれより残る可能性はちょっとあって。たとえば美術館に所蔵されたとしたら、それを観た後世の人は、『なぜこの時代にこの人はこういうものをつくったんだろう。当時の文化はどうだったんだろう?』と考えることができますよね」

ピラミッドの先だけ見えているから、その土台部分は、鑑賞者自身が想像したり調べたりできるのがアートかもしれませんね。それにもしかしたら、作品をつくった本人ですら、知り得なかった角度からピラミッドの姿が見えてくるかもしれない。

「情報量は少ないかもしれないけど、豊かでもある。知り合いの学者さんが言っていたのは、『言葉だけだといずれケンカになる。でも芸術をあいだに置くことで、迂回したコミュニケーションになるから、違う方向に発展していく可能性がある』と。それは本当にそうだよなと思います」

これからアーティストを志す人に、伝えたいことはありますか?

そう尋ねると、「自分が言っていい立場かわからないけど」と前置きしたうえで、ユギョンさんはこんなふうに答えてくれました。

「作品をつくるうえで、まず最初にやるべきなのは土台をしっかり考えることだと思っていて。じゃないと、薄っぺらい表現になっちゃう。バズらせたりビューを稼いだり、そういうことがしたいんだったら、そっち方面でがんばるのもいいんです。でも表現したいことがあるなら、関係ないバイトとかしながらでも、自分と向き合って、調べて。全速力じゃなくて、時速40〜60キロのスピードでいいから、土台をつくることに注力したほうがいいと思っています」

自分の作品にとっての土台は、何なのか。

それを見つけることができずに、行き詰まっている人も少なくないと思います。アーティストではないけれど、ライターとしての自分自身、何を拠りどころにして書いていけばいいのか、迷うこともあって。在日コリアンとして生まれ、向き合うべき課題やアートという表現手段を持っているユギョンさんのような人だから「土台」を保ち続けていられるんじゃないか、という思いさえ湧いてきそうになります。

「たしかに、在日コリアンっていうアイデンティティに対して、政治や歴史、戦争との距離が近いから、すぐそうした話題になりやすいです。だけど、ぼくはあくまで自分の話をしているだけで」

自分の話。

「ぼくにとっては現代アートが、“わたし”っていう一番のローカルを出せる場所なんです。みんなそれぞれのやり方でいいから、もっと自分の話をすればいい。どのみちそれは、社会の話につながるから。そうやってどんどんノイジーな世界になっていったら、豊かでおもしろい未来と言えるんじゃないですかね」

自分の悩みや喜びなんて、ちっぽけなものだから。

そんなふうにして、感じ、考えたことを矮小化してしまうのはもったいない。それは自分に嘘をつくことにつながってゆくのだと思います。

何をよいと思い、どこに疑問を感じ、どんな人たちとともに、どう生きていきたいのか。自分の内側にとどめておくのではなくて、もっと声に出していこう。ユギョンさんとの対話を通じて、小さな勇気がふたたび心に灯るのを感じました。

 

文章:中川晃輔

写真:壱岐成太郎

チョン・ユギョンのプロフィール

1991年兵庫県生まれ。2014 年朝鮮大学校美術科を卒業。2017年からソウルを拠点に作家活動をしていたが、法律が変わり徴兵対象となったため 2020 年末に日本に帰国。以降は福岡に移住し制作をしている。作品では「朝鮮人」の移動の歴史を検証することで、恣意的に引かれる「境界線」や文化と戦争の関係に対して問いかけることを目指しており、近年は有田焼や大村収容所の歴史を調査しながら作品を発表している。