田代 美由紀(たしろ みゆき)さんって、何者なんだろう。美由紀さんと出会ってから6年ほど経つと思うのだけど、これまでどうにも説明が難しかった。
初めて出会った時は、確か棚田の保全活動をしていたと思う。高野山に造詣が深い人、というイメージもあった。それからある時はキッチンカーでコーヒーを販売していたり、ありたぶた(有田産の豚肉)の営業として走り回っていたり。トリム体操の先生に、炎の博記念堂の企画……有田のあちらこちらで、美由紀さんのいろんな姿を目にしてきた。
そんな美由紀さんが、去年から本格的にいちごの生産を始めた。ますます大変になるのではとびっくりしたが、ご本人は忙しいながらもとても生き生きしている。
何をしていても、ちゃんと「美由紀さんらしい」。そんな彼女と話しながら、生き方のヒントを探してみました。
農業がずっとやりたかった
美由紀さんは何をしている人なのか。何を目指してきたのか。その答えはあっさりと出た。
「今はいちご(の生産)をメインに時々キッチンカーでの移動販売をしている感じですね。農業は大変かろう?って言われるんですけど、ずっとやりたかったことなので嬉しいですって答えてます。やりたかった農業をやれてるってだけで嬉しい」
実家が農家ということもあり、家族総出での稲刈りなどを通して農業への興味はもともと強かった。
その想いは大学で確かなものになる。二年生の時に、最初に入った比較文化学類から生物資源学類、いわゆる農学部へと転学したのだ。
「一年生の時に農学部の先生の授業をたまたま受けて。最初は世界の貧困問題や環境問題にすごく意識が向いていたんですけど、だんだんと日本の農業もやばいんじゃない!?って思うようになって。ダイレクトに環境問題に関わる分野だし、これは農業をもっと勉強しないといけないと思って転学しました」
その時には農家になりたいという気持ちを固めていた美由紀さん。ただ、家族には大反対されたそうだ。
「農業やりたいから転部するって連絡したら、あんたを農家にさせるために大学まで行かせたとやなか!って(笑)」
実際、美由紀さんの家だけではなく、同じ苦労をさせたくないから子供に継がせたくないという農家は地域の中に多いそう。美由紀さんの、農業への長い回り道が始まった。
金融機関から高野山へ
両親の言葉に加えて、すぐに農業で食べていく自信もなかったため、美由紀さんはまず就職することに決めた。
「いろんな業種や会社を見てみたかったのと、新卒という特権を使うならここかなと思って、金融機関に入りました。予想はしてたけど、性格的に全然合わなかったですね(笑)。縛られるのがすごく苦手で」
さらに2年目には、リーマンショックが勃発。一気に忙しくなり、困窮した顧客の人生に関わるような相談を若い自分が受けていいのか?と葛藤を抱えるようになった。
「ちょうどそんな時に大学の同期から久しぶりに連絡が来て、『田代、高野山って興味ない?』って」
高野山といえば、弘法大師によって開かれた真言宗の聖地。大学で比較文化学にも触れた美由紀さんにとっては、興味をひかれる土地だった。
その高野山がある高野町役場で初めて、全国から職員を募集するという。
「それで試験に受かって、そっちに行きました。何となくまだ外に出たかったんですよね。親には、30歳までには帰ってくるから、それまでもうちょっと好きなことさせてって言いました」
一人っ子ということもあり、農家はともかく家に帰ってくることは約束していた美由紀さん。ここから高野山での濃い6年間が始まることとなった。
もうひとつの故郷・高野山
「高野山では観光課や企画課でイベントや広報の仕事などをしてたんですけど、私が一番惹かれたのは職人さんたちで。畳屋さんや大工さん、表具師さんや位牌の職人さんまでいて。100以上あるお寺を維持していくために、力を合わせて仕事をしている。この文化を伝えたい、発信したいなって思いました」
役場の事務所に座っているのが性に合わない美由紀さんは、頻繁に現場に出入りして職人さんの話を聞いていたそうだ。そうしてそれを、ひとつの冊子にまとめた。
ちょうど手元にあるということで、実際に読ませていただく。
これは…後世に受け継いでいってほしい、貴重な資料ですね。
「役場の職員らしくなかったからか、『何や田代またお前は、仕事してるんか?』みたいな感じで職人さんたちには可愛がってもらえて、いろんな話を聞かせてもらいました」
それだけではない。
高野町は、観光地である高野山から一歩外に出れば、限界集落ばかり。水道は整備されておらず、水を山からパイプで各家庭に引いているので、雨が降ればひどく濁る。沢を登って自分の足で水質調査を行ったり、タンクを新しくする働きかけをしたりと、精力的に活動した。
「青年団の団長もやりました。女性は前にもいたけど、他所から来た人がやるっていうのは初めてのことで。『田代さん馬力あるなぁ!』って言われましたよ(笑)。それで地域の人が認めてくれた感じはありますね」
そんな高野山で、美由紀さんが休日に足繁く通ったのは高野山大学の図書館。
「そこがもうめっちゃ楽しくて。宗教、文化、工芸、そして歴史。特に日本史にもハマったんですよね」
知識を思う存分吸収して、とにかく動く。高野山での6年間は、その後の美由紀さんの確かな土台を作り上げたのではないだろうか。
家族との約束通り30歳で役場を退職して以降も、毎年のように高野山を訪れているという。
「久しぶりに会うと、『田代がおらんようになってから張り合いがないわぁ』みたいな感じで言ってくれますね」
正直パンクした、30代前半
30歳で有田に帰ってきてからは、「岳の棚田環境保全協議会」の事務局に誘われたことを皮切りに、目まぐるしい日々が始まった。
気づけば、キッチンカー・炎の博記念堂・トリム体操・ありたぶた、それから飲食店でのバイト等も含めて、いくつも掛け持ちする状態に。畑も少しずつ始めていたものの、農業どころではない状況となってしまう。
「もうめちゃくちゃ忙しくて。とにかく頼まれたら断らないようにしようって全部引き受けてたんです。でも、パンク状態でしたね。電話かかってきても、これ何の電話だっけ?みたいな。スケジュール帳にも書ききれてなくて」
目の回るような忙しさを止めたのは、コロナ禍だった。
「コロナ禍でいろんな活動がぴたっと止まって暇になって、そこでやっとリセットされました。もしあのままだったら、農業は遠のいていたかもしれない」
やりたいことしかやらないと決めた
時間にゆとりができたことで、これからどう生きていきたいか、落ち着いて考えられるようにもなった。
「それまでは、せっかく自分に言ってくれてるんだからなるべく全部応えようって思って、なんでもやっていました。でも、これからは自分のやりたいことだとか、自分の好きなことしかやらないようにしようって、心に決めて」
「これまでの人生の中でも、難しそうだからもうちょっと他のことからやろうとか、先延ばしにしてしまったことがあって。でもやっぱり、どうしてもやりたいことがあって自分もそれがわかってるんだったら、それをやったほうが良いよ!って今は思います」
不安はあるし、うまくいくかわからない。
けど、それでも、と美由紀さんは力を込める。
「もっと貯金が貯まったらとか、そういうのも大事だけど。そればっかりでずっと迂回してたら、いつまで経っても本気になれない」
人との関わりが背中を押す
一時期は一番やりたい農業が遠ざかるほどの忙しさに飲み込まれていた美由紀さん。
そんな中でも、人との関わりは、ちゃんと今へと繋がる道筋になっていた。
たとえば、キッチンカーを始めたきっかけは高校生の時にまで遡る。当時バンド活動をしている中でお世話になっていたという楽器屋の元店員さんが、ノマドコーヒーというカフェを開いた。高野山から有田に帰ってきて手伝いに行くようになり、「移動販売、向いてるんじゃない?」という勧めがあって、キッチンカーを始めたのだとか。
「人と何かやるのが好きだし、人と関わるのがやっぱり楽しいって思います」
本格的にいちごの生産を始めることになったのも、実はノマドコーヒーのお客さんから背中を押されたから。
「本当は農業やりたいんですよねって話してたら、『自分もやりたかったけどもう年やけん、若い人がやりたいって言うなら応援する!』ってお客さんがいて。それで『国産のマンゴスチンは無かとよ!マンゴスチンば作らんね!』っていきなり規模の大きな話になって(笑)。それまでは初期投資を抑えたリスクの少ない作物を考えてたんですけど、なんかそれで良い具合にタガが外れた感じはありましたね」
そこからお客さんも一緒に考えてくれて、最終的にはいちごに辿り着いた。ハウスの下見にまで付き添ってくれたりと、本当に全力で応援してくれたのだそう。
それはひとえに、美由紀さんが人と関わることを大切にしているからだと思う。
目指す農業の原点は「ナウシカ」
ようやくやりたかった農業の道に本格的に踏み出した今。美由紀さんは、これから何を目指していくのだろうか。
「私の原点はこれなんです」と取り出したのは、『風の谷のナウシカ』だった。
「ナウシカの大きなテーマって農業に通じるものがあって、自分一人が幸せであれば良いわけじゃなくて、持ちつ持たれつの中で循環していくってことだと思うんです。朽ちてもそれが次の命を繋いで、自然の中で生命が当たり前に回っていく。それがすごく好きだなって」
美由紀さんの描く農業のキーワードは「循環」。仕事を絞っていく中でも、ありたぶたを生産する池田養豚場との仕事を続けたいと考えるのはこれが大きな理由だ。
「循環を実現して社会全体を良くしていくには、農業と畜産っていう組み合わせは絶対必要なんです。池田社長(池田養豚場)の構想でもあるんですけど、堆肥を農業に使って、作物を家畜が食べ、その肉を人間が食べる。そしてまた食品残渣を飼料にする。そういう風に循環できるシステムを最終的には作っていきたい」
じゃあうちで働いてみなよ!って言えたら
行動にも、その言葉にも確かなエネルギーを感じる美由紀さん。「なんかやっぱり、人を喜ばせたいんですよね」と笑顔を見せる。
「いちごも美味しいって喜んでもらえたらすごく嬉しいし、やっぱりそういう瞬間がやってて良かったって思います。」
後に続く人にとって、自分が道標になれたらという思いもある。
「定年退職して農業にはまる人はいるんですけど、若いうちに農業をしっかりやる人ってまだ少ないし、少ないからこそ自分がやってインパクトを与えたいって気持ちはありました。若くてもこんなにやれるんだって、認識を変えたいっていうか」
その思いの強さは、自身が家族から反対された過去があったからこそ。
「農業ってきついとか儲からないとか、そういう認識で固まってしまってる人もいるから、子供がやりたいって言っても親は『せんでよか』って言うんですよ。でも、だからって田んぼを荒れ放題のままにしていたら、地域として成り立たなくなるわけで。そういう意識を変えられたらって」
地元出身の若い人だけではなく、たとえば農業に興味を持って移住してくる人にとっても、「まずは田代さんに話を聞いてみたら?」と言われるような存在になりたいと語る。
「昔は私も、田舎暮らしに憧れる人に対して、そんなに甘くないよって思ってたこともあります(笑)。今は、何からすれば良いかわからないんだけど……って言う人には、じゃあうちで働いてみなよ!って声をかけられたらなって思いますね」
自由でありたい
美由紀さんが一番大事にするのは「自由」であること。それは美由紀さんの人生の中で一貫している指針のようなものだ。
「日本史の中で鎌倉室町あたりの時代が大好きなんですよね。武士や商人、職人たちが出てきて、それまで決められた身分の中でしか生きられなかった状態が、段々壊れてきて。人々の間で、『自分はここでしか生きられないと思っていたけど、もっと自由で良いんだ』って空気が広がっていく流れが、すごく好きなんですよ。やっぱり自分の中で、自由っていうのは大きなテーマですね」
美由紀さんの考える自由は、好き勝手にすることとは全く違う。自分が周囲にどういう影響を与えるのか、そこに責任を持った上での自由。
その考え方は、昔からバンド活動が好きだというところにも通じる。
「音楽をやってる時もすごく自由を感じますね、自分の中で。表現するって難しいけど、自由なことだし。バンドはそれぞれの楽器の担当があって、それぞれの自由な表現があって。それをみんなで調和しながら作り上げていくっていうのがすごく好きですね」
でも、自由に生きるって、案外難しい。知らず知らずのうちに、「自分には出来ない」と制約を設けてしまっていたりとか。
自由であるためにはどうしたら良いのだろう。美由紀さんの考えるヒントを聞いてみた。
「自分なりに勉強をしたりとか、たくさんの情報を持っておくのは大事だと思います。知らなければ、世界が本当に広いことすらわからないので。自分の興味のあることなら尚更、とにかく勉強したり、人の話を聞いてみたり」
そしてやっぱり最後に選ぶのは自分だから、自分の選択を意識するということが大切なのではないかと、しばらく考えてから答えてくれた。
「日常の中で、何を食べるとかどういう本を読むかとかどんな音楽を聴くとか、それをいちいち自分が選んでいるんだって意識すること。理屈っぽくならなくて良いんだけど、そういう小さな選択も自分が決めてることだって意識すると、自分でも気付いていなかったような拘りや好みに気が付いたりするんじゃないかなぁって」
自分のことなのに、実は自分がわかっていないということはよくある。意識して自分をちゃんと知ることが、自由であるための一歩かもしれない。
美由紀さんが思うおもしろい未来
「自分もそうであるように、なるべくたくさんの人がもっと自由に生きられる未来だったら、絶対おもしろいですよね」
「自分には出来ない」と思い込んでいることを「出来るかもしれない」と思える。そんな未来を美由紀さんは描いている。
「ミュージシャンのレキシのライブで、ジャズピアニストの上原ひろみさんが出演している動画がすごく好きなんです。彼女のピアノって、見ていて気持ち良いぐらいに本当に楽しそうで自由なんですよね。それに対して池ちゃん(レキシ)が、『あなたは自由だ!!』って言うんですよ。もう好きにやって!みたいな。そんな風にみんなに『あなたは自由だ!』って言いたいですね」
「実は私、最近結婚したんですけど、それまで『自分には結婚はできないだろうな』って思ってました。夫は26歳年上で、私は思いきり仕事して、家事は夫がやります。『こうだったらいいな』って思っていたことが実現して、自分でもビックリしています(笑)
たぶん、『普通の』ってイメージする夫婦像とは全然違うかもしれないけど、私たちにはすごく自然な形で、さらに自由になった気がします。」
本当の意味で自由であること。それは人との支え合いの中で、社会の中で、自分らしさを理解して妥協なく生きていくこと。
だからいつだって美由紀さんは美由紀さんらしいんだなと、その笑顔をみながら思いました。
文章:鈴木 愛子
写真:橋本 優(一部提供)
田代美由紀(いちご農家)のプロフィール
伊万里高校、筑波大学卒業後、日本政策金融公庫、和歌山県高野町役場に勤務。
その後サラリーマンには二度とならないと決意し、2016年に有田町にUターン。自営業から、今は農業が本業。ロックをはじめ、音楽は聴くのも演るのも好き。パティスミスみたいなおばあちゃんになるのが夢。ちなみに、夫は音楽家です。