何かをはじめるのに、遅すぎることはない。
そう頭ではわかっていても、どこかでブレーキをかけてしまう自分がいる。
「常識的に考えて」とか「今さら」とか、「周りの目が気になる」とか、枕詞を掲げながら。
もしも今、そんな自分に違和感を感じているとしたら、ぜひ会って話してみてほしい人がいます。
わきみち堂の西岡学さんです。
わきみち堂は、西岡さんが2019年から掲げはじめた屋号です。
パンを焼いて届けることを軸に、芝居や浪曲、朗読など、さまざまな表現に取り組んできました。
パン屋としての活動は2022年7月から休止中。その後さまざまな巡り合わせもあり、今まさに再スタートに向けて動きはじめているそうです。
有田町内外で人気を集めつつあったパンづくりを、西岡さんはなぜ一度やめようと思ったのだろう。
あらためて目指すパン屋の姿って、どういうものだろう。
気になることを、一つひとつ、じっくり聞きました。
ちなみに、はじめに断っておくと、西岡さんは答えをバシッ!と出してはくれません。
強い言葉で背中を押してくれるわけでもありません。
常に迷い、立ち止まりながら、選択を重ねてきたような方です。
それでも(いや、“だからこそ”といったほうが適切かもしれませんが)、目の前に現れる課題や葛藤に対して、
素直に・まっすぐに向き合い続ける西岡さんの姿勢に触れていると、なんだか勇気が湧いてきます。
自分の人生、いつから、どこからでも、思うようにはじめたらいいと思えてくる。
まずは気楽に読んでみてください。
集合場所は、蔵宿駅の駅舎内にある「薪の宿から」。
昨年12月にオープンしたカフェで、もともと有田町内で「TIMERの宿」というオーベルジュを営んでいた高岡盛志郎さんがはじめた。
この蔵宿駅は、わきみち堂の西岡さんにとっても思い入れの強い場所だという。
「生まれも育ちも西有田町で。10代のときに、ちょっと道を外しちゃって、夜にバイクに乗って集まるのがここだったんですね」
駅舎の改装中には、鉛筆で“怒羅餌門(どらえもん)”と書かれた白いボードも見つかった。
それはかつて西岡さんが蔵宿駅に書き記した、自分たちのグループ名だった。
店主の高岡さんは、後日訪れた西岡さんに「はい、思い出」と、そのボードを渡してくれたそうだ。
「出無精なわりに、ここはほぼ毎週通っています。なんてことはなくコーヒー飲んで帰ったり、そういう感じですけど。そんな場所がここにできたのはすごく、自分にとって、信じられないぐらいのことなんです」
高岡さんが大事な場所を守ってくれているんですね。
「わきみち堂の一番最初のお客さんも高岡さんでした。自分はパンをやり出してからSNSをはじめたんです。最初に販売したのはイベントで、人は正直そんなに集まらなかったんですけど、乏しい情報をどこかから聞きつけた高岡さんが、携帯に直で電話してくれて、買ってくれて。そのときからずっと、宿でわきみち堂のパンを使ってくれて」
毎週のようにわきみち堂のパンを仕入れ、TIMERの宿主催のファーマーズマーケットにも声をかけてくれた。
地元があまり好きではなかったという西岡さん。
マーケットを通して、無農薬で野菜をつくる農家さんやエネルギーにあふれた作家さんと知り合えたことで、
西有田の魅力に気づくきっかけにもなった。
「今でも『また焼いてね』って言ってもらいます。高岡さんだけじゃなく、パンをやってなければ出会わなかった人たちと友だちになって、パンをつくる自分の存在を求めてくれた。その想いに応えて、自分の人生を全うするためにも、もっと根本的に学び直したい。新しくパン屋として立ちたいっていう想いがあります」
西岡さんがわきみち堂をはじめたのは、2019年の5月。当初は家庭用のオーブンでパンを焼いていた。
その後、実家の蔵を改装して工房に。
店舗はもたず、地域の直売所や知り合いのスペースを間借りしたり、イベントに出店したりして、パンを届けてきた。
「賢治」「ジョバンニ」「カムパネルラ」「ムカイ」「ミネタ」「ヨシノ」
これらはすべて、わきみち堂でつくってきたパンの名前。
西岡さんの敬愛する人物やキャラクターがモデルになっている。
ちょっと変わった“ものがたりのあるパン”は話題になり、テレビやメディアに取り上げられるように。
一方で、そんな反響とはうらはらに、西岡さんはもやもやした想いを抱えていた。
「この人はこの味だ、と思ってレシピをつくるんですけど、そこで止まっちゃうんですよね。変化も進化もさせられなくなって、自分は何やってんだろうって。固めたものに近づけて、形にして。それがなんなんだろう?っていう気持ちは、ずっとありました」
一度パンづくりを休もうと決めたのが、2022年の7月。
以来、週の前半はそれまでもパンづくりと並行して携わっていた障がい者支援事業所での仕事を。
後半は造園の仕事をして過ごしてきた。
そこからまたパンをつくろうと思えたのは、なぜだったんでしょう。
高岡さんのような人たちの想いに応えたかったから? それとも、何かきっかけがあったんでしょうか。
「ああ。そうですね、えっと…」
ゆっくりと記憶を遡りながら、西岡さんが語りはじめる。
「去年の12月17日に、嬉野で絵本作家をしている友人から連絡が入って。『明日、島原のタネトさん(オーガニック野菜や食品を扱う直売所)で、あなたの好きな作家さんと農家さんのトークイベントがあるよ』って言うんです」
ただ、翌日はあいにくの雪予報で、やろうと決めていたこともあった。「明日はやめとくわ」と連絡を返したそう。
「そしたら次の日の朝、やけに早く目が覚めて、そわそわして眠れなくなったんですね。それでもう一回調べてみたんです」
トークの申し込みも、ギリギリセーフ。
それに加えて、ちょうどタネトの3周年のマーケットも開かれるらしいことがわかった。
出店者の名前をなぞる。すると、ひとつのパン屋の名前が目に留まった。
「木村製パンって名前が出てて。この辺で聞いたことないな、新しいパン屋さんなのかな?と思って調べたら、長野の上田のほうで工房を構えて、卸とかイベントに出されてるパン屋さんで。インスタも載ってたんで調べたら、じつはその、前に自転車で日本一周の旅をしたんですけど、東京のパン屋さんをまわるなかで、唯一リピートしたお店があって。そこのシェフが長野に移ってひとりでやられているパン屋さんだったんですよ」
木村シェフは、旅の途中でふらっと立ち寄った西岡さんをキッチンに招き入れ、いろいろな話をしてくれた。
パンづくりのこと、いいパンとはどういうものか、おいしいパン屋さんの話など…。
自分もパンをつくりたい。そう思わせてくれるような、あたたかい時間だった。
目はすっかり覚めて、気づけばハンドルを握っていた西岡さん。タネトへと車を走らせる。
「あんまり時間もなくて、ばーっと調べて行ったので、木村さんがそこに来ると思ってたんですよ。ところが、木村さんはいない。タネトの代表の方がいらしたので、『木村製パンのパンはどこで買ったらいいですか』って聞いたら、『すいません、売り切れました』と。『木村さんは?』『来られてないです…』。それで、ちょっと放心していたら、『スタッフ用に何切れかとってあるので、これをお譲りします』って、カンパーニュをくださったんです」
コーヒーを買い、車に戻る。雪の降るなか、カンパーニュを一口。
「カンパーニュだから派手な味ではないんですけど、素朴にうまいなと思って。なんとも言えない感覚がこう、自分のなかに生まれたんですよね。で、そのときに嘘みたいに気づいたのは、自分はパンをやめてから、自分でつくったものに限らずほかのパンも、半年ぐらい食べてなかったんですよ」
無意識に避けてきたパンとの、半年ぶりの再会。
この経験がきっかけとなって、西岡さんはまたパンをつくろうと思い立つ。
とはいえ、今までと同じやり方を繰り返すわけにはいかない。
あらためてパンづくりの根っこから学び直せる環境を探すことに。
「ちょうど木村さんのインスタのストーリーズに、スタッフ募集の情報があがっていたんです。でも50週近く前の投稿で。まあ間違いなく無理だろうと思いつつ、動かないとなんも始まらんと思ったけん、DMを送ったんですね。そしたらわりとすぐに返事があって。自転車旅のときのことも覚えててくれて、すごい縁があるもんですねって、話をさせてもらって。ただ、今働き手を入れる考えはまったくない、っていうことをちゃんと言われました」
その後も関心のあるパン屋にアプローチを続けてきた西岡さん。
現在は造園の仕事を続けつつ、オンラインでパンづくりを学ぶスクールに応募して、
次のステップを模索しているところ。
「今、自分は44歳で、この歳から修行したいって、世間的には何言ってんだってことだと思うんです。でも結局、自分の人生は自分のものだし、44歳まで積み重ねてきた、この自分を生きるしかない。やれる道、可能性があるならやっぱり、進むしかないと思っています」
これからどんなパンをつくっていきたいですか。
「自分に似合うパン、っていうか」
似合うパン。
「憧れとか、自分がやりたいってこととはまたちょっと違うかもしれないですけど。自分に似合うパンをつくって、それを自分の生きることにつなげたい」
その想いを紐解いていくと、およそ10年前の原風景が思い起こされる。
佐世保の柚木の“師匠”と過ごした日々のこと。
西岡さんは、その方のもとで天然酵母を使ったパンづくりを学んだ。
およそ1年弱のあいだ、ほとんど丁稚奉公のような形ではあったけれど、とても楽しかったそうだ。
「その師匠には、もうひとり兄弟子的な存在の人がいたんです。もともと鳶職の管理とかをされてた方で、当時62歳ぐらい。大病を患って仕事を辞めて、パンづくりを学んでいました。師匠とその人、おふたりが人間としてすごくエネルギッシュでおもしろくて。劇場みたいな感じだったんですよ。日々がすごく回転していて、おもしろかった」
そんな日々を、そのパン屋さんのブログで毎日投稿するのも西岡さんの役割だった。
パンづくりはもちろん、さまざまなことを学んだという。
「そのときの経験は、今でもよく思い出しますね。必要とされてたし、自分を発揮できていたと思うし。何よりめちゃくちゃ楽しかったんです」
こうしてお話を聞いていると、西岡さんにとってのパンは、常に人と紐づいているように感じます。
「人を介して、っていうのは自分のキーワードかもしれないです。目の前の人を好きになったり、信頼するから、自分をかけられるじゃないですか。自分の存在っていうのは、ほんとに人ありきなんですよ」
パンづくりと並行して、芝居や浪曲、朗読などにも取り組む西岡さん。
それらの表現に共通しているのも、“媒介する”ということ。
自分の体や心を介して、役を、作者の思想や想いを、人に伝える。
もしかしたら、パンもそういうところがあるのかもしれないですね。
何かを乗せたり付けたりして食べることもできるし、素材を通じて土地の魅力を伝えることもできる。
そもそも西岡さんとパンって似ているな、とか。勝手にですが、そんなことも思いました。
「それは想像していなかったですけど、言われてみたらめちゃくちゃそうかもですね。今から自分がつくっていきたいパンって、まったくそれで」
「少し前まで、自分をバッ!って出すことが表現だと思っていたんですよ。でもそれってすごく疲れる。なんで疲れるかって、たぶん自分に合っていなかったんです。やりがいとか、やるべきこととか、間違って自分のなかで解釈されてエネルギーと化してるけど、自分に合わない形で力を注ぐけん、無理が生じたんでしょうね」
屋外で浪曲を披露したときも同じことを感じたそう。
声を張って遠くまで届けることに意識がいってしまうと、本来あるべきリズムが遮断されてしまう。
「そうじゃなくて、とにかく力まず、リラックスして。パンも、自分の生き方がそのまま形になっていけば、それが求められるパンになる。そういうものかもしれないですね」
最後に。西岡さんにとっての、おもしろい未来ってどんな未来ですか?
「自分の大事な人たちが、楽しく元気に、その人の能力… なんかその、優劣がある能力じゃなくて、その人が持ってる力を発揮して、協力しながら回っているっていう。そういう未来ですかね。そのために自分もまた今からパンをやりたいと思うし」
「出会いってすごく大事だと思ってて。いい人に出会えば、必ず引き出されるものがあるんです。だから密かな野望としては、この『薪の宿から』に若者が来て、高岡さんとかここに集うおもしろい大人とたくさん話してほしい。自分もここで待っているので」
人生って、誰しもに共通する正解があるわけではありません。
多くの人が通る道は、太く、立派に見えがちだけど、そのすぐそばには無数のわきみちが広がっている。
これから先、もしもそのことを忘れそうになったときには、
西岡さんと過ごした時間をまた振り返ってみることにします。
文章:中川 晃輔
写真:橋本 優(一部提供)
西岡学(わきみち堂)のプロフィール
佐賀県有田町(旧西有田町)出身。
10代の頃から土木作業員、水道設備、パン販売業などの職業を経て
33~35才の時に自転車日本一周の旅をする。
その旅の途上、人との出会いによってパン屋を志す事になる。
2019年から「わきみち堂」としてパン屋を始める。
その他のわきみち堂の活動として
浪曲上演、宮沢賢治さんの朗読会、などを行っている。
現在はパン屋休業中だが
新たな形でのパン屋再開に向けて、色々な物事を模索中。