成太郎さんの撮る写真が好きだ。
大人も子どもも、家並みも。山に転がる石ころまでも。
そこにやさしい視線が向けられているのを、じんわり感じるような。被写体の強さと脆さ、希望と孤独が、一緒になって見えてくるような写真たち。
ローカルフォトグラファーとして、有田町の日常を撮り続けてきた壱岐成太郎さん。灯すラボWebに掲載している半数近くの写真を撮影してくれています。
作為的になってしまいがちなインタビュー風景も、成太郎さんが撮ると、とても自然な雰囲気に感じられる。と同時に、「ここでこんな写真があったら…!」という気持ちにピタッと寄り添ってくれるので、書き手としてもすごくありがたい、頼りになる存在です。
そんな彼は、今年で3年間の地域おこし協力隊の任期を満了。集大成として、3月にまちのオフィス春陽堂で「UNTIL THIS LIGHTS UP」という展示を開催しました。
ひとつの節目を迎えた今、どんなことを考えているのか。そもそも、なぜ写真をはじめて、どうして続けているのか。
お気に入りのスポットで、じっくり聞かせてもらいました。
なお、成太郎さんの3年間の歩みは、ラジオ番組「灯すラボ on Podcast」でも語ってくれています。およそ1年前にも、ローカルレコーディングレーベル「NOW HERE」のメンバーとして灯すラボに登場しているので、あわせて聴いて・読んでみてください。
有田ダムのほとりにて。
――気持ちいいですね〜。灯すラボ実験室から車で4〜5分のところに、こんな場所があったとは。
成太郎さん(以下、成太郎):
いいっすよね。あっちのほうから黒髪山にも登れますよ。コロナで人に会いにくかったころは、登れそうな山を見つけたら全部登ってました。
――地元はたしか、宮崎県でしたね。
成太郎:
そうっすね。高千穂町の出身で、3、4歳のときにもっと田舎の南郷村(現在の美郷町)ってところに引っ越して、小学校入る前までおって。小学校から高校までは日向市にいました。サーフィンとかが有名なところ。
――当時から自然は好きだったんですか。
成太郎:
親父がヤマメ釣りが好きで、小さい頃からよく連れてってもらっちょった記憶はあるかな。自分もそういうものが好きって認識はなかったけど、自分で道を見つけていって自由に遊ぶ、っていうのは今も好きかも。
――写真や映像を撮りはじめるきっかけは?
成太郎:
中学生くらいから、ストリートカルチャーとか音楽、ファッションに興味が湧いて。その流れで、ピストバイクっていう自転車に乗りはじめたんですよ。福岡にFish & Chipsっていうクルーがいて、この人たちと自転車乗りたいなと思って。
大学で福岡に行って、その人たちとも仲良くなって。宮崎の田舎から出てきた自分からしたら、身の回りで起こる出来事が、すごく刺激的でおもしろかった。そういう生活を記録したり、発信したりするのもおもしろそうやなと思って、先輩の持ってたコンパクトデジタルカメラを借りて適当にビデオを撮りだしたのが、写真や映像を撮るようになったきっかけっすね。
――「ストリートカルチャー」って、言葉としてはなんとなく聞いたことがあるけど、自分はそのカルチャーにあまり触れないまま生きてきた気がするんです。成太郎さんが惹かれたのって、もう少し言うとどんな世界だったんでしょう。
成太郎:
むずいっすよね。それを言葉にするのはけっこうむずかしいなって毎回思う。
ダム湖のほとりで話していたら、上空でヘリコプターの訓練がはじまってしまい、より静かなマイセンの森へ。
成太郎:
スケボーとかグラフィティとか、チャリとかファッションだけがストリートカルチャーだとは思ってなくて。居酒屋行って、知り合いに会って「おお、次どこ行く?」とか、好きなレコードに出会うとか。なんでもいいんです。
――そう聞くと、ちょっと身近に思えます。ストリート(=外の世界)に出て、気の合う人とかグッとくるものに出会って、思いがけず何かはじまっていく感じ。
成太郎:
一人で遊びよって、たとえば鏡越しにダンスを練習してる人がいるとするじゃないですか。最初はしゃべんないけど、2、3日同じ時間にいたら、タバコ吸うとか、コンビニ行くとか、何かのタイミングでしゃべったりして。今こういう映像撮ってるんよね、こういうアイデアがあって、とか。そこから「一緒に何かやってみらん?」みたいにはじまっていく。
――成太郎さんがよく使っている言葉でいうと、それが「バイブスが合う」っていうこと?
成太郎:
バイブスって便利な言葉よね。熱量、波みたいな意味やったり、テンションみたいな意味やったり。いろんな言葉に当てはまりそうだけど、結局バイブスあるかないか、みたいな。ちょうどいい揺らぎみたいなものがある。
――曖昧だからこそ共通して使えるし、言わんとする意味が人それぞれ違っても一緒にいられる、というか。
成太郎:
うんうん、それはあるかも。
結局、誰のこともわかり合えないじゃないですか。人間て、誰のこともわからんままずっとやっていく、死んでいくと思うから。そういう意味でも、何かがわかってればいいじゃん、みたいなテンションですかね。
――誰のこともわかり合えない。その感覚は、ずっと前から持っていたものですか?
成太郎:
そうね。写真とかしてると、やっぱわかんないなって思う。その人の気持ちも、自分の気持ちも。
だから逆に、ひとつでもこれはこうなんやなって思えるものが見つかったらうれしいし、わかりたい。そういうものを拾い集めていく感じのおもしろさが、写真にはある。大げさに言うと、それが人生のおもしろさでもあるんかなって思うっすね。
――わからないものをわかりたくて撮るのか、撮っているうちにわからないことが見えてきて、それに向き合っていくのが楽しい、みたいなことなのか。成太郎さんにとって、写真を撮ることはどんな意味合いを持っているのか、知りたいです。
成太郎:
この前、福岡のインターナショナルスクールで自分の話をする機会があって。そのときは、「写真はコミュニケーションツールです」って言ったんですよ。
――コミュニケーションツール。
成太郎:
たぶん自転車とかもそうで。スケボー持って電車乗ってるやついたら、あいつスケボー好きなんやっていうことやし、服とかもね。好きなバンドのTシャツ着てるとか、本とかもそうじゃないですか。何か身につけたり、何かやるってことはすべてコミュニケーションになる。
成太郎:
おれにとって写真は、そういう意味で、なんて言ったらいいのかな。撮ったら写るし、写ってるものを見てるのは自分。逆に、自分に見えてなかったことも写ったりする。自分ってこんな人間なんやなって思い知ることにもなるし。こんなことに興味があるんだとか、こんなことしか見えてないってことにも気づけるし。人や、ものや、風景と自分はどう接していて、この世界をどんなふうに認識してるのか。どれくらい他者に関心があるのかないのか。みたいな問いをずっと繰り返す作業が、写真とか映像をやってておもしろいなって思ったり、きついところでもあるんかな。おもしろいですけどね、基本はね。
――コミュニケーションツールというと、他者と仲良くなったり、何か交わしたりっていう意味合いも強いですよね。それも実際あると思うけど、撮ることで自分をまた知るとか、自分のスタイルがそこにできていく。自分とのコミュニケーションでもあるんじゃないかなと思いました。
成太郎:
そうっすね。他者への関心っていうよりは、他者とつながったあとの自分に関心があるんやろな。まだ自分がかわいいんやろね。
そういう意味では、もっと他者に関心を向かせたいっていう抵抗があるかもね。他者に目を向けて、他者のことだけで終わってる状態になれたらいいかな。この場所みたいに、気持ちいい存在になれたらいい。
――いろんなものを見て、撮るなかで、写真に対する感覚は変わっていくものですか。
成太郎:
なかなかできてないんですけど、語らなくなりたいなと思ってはいて。
――語らなくなりたい?
成太郎:
自分の思っちょることとか、主張とかね、ちゃんと持ってたい、出したいっていう気持ちがあったと思うんすよね。昔から。子どものころなら、何かになりたいとか、この感情、思ってることを伝えたいとか。けど、有田に来て3年経って、今32歳。なんか、自分のそういう主義主張みたいなやつが減るように。どうでもよく、なんでもなくなれるようになれたらいいなって。最近思うのは、そういう感じですかね。
――なんというか、ちょっと意外でした。成太郎さんは、自分の大事にしたいこととか意志がはっきりした人だな、と思っていたので。まあでも、それを人に押し付けないっていうことですかね。
成太郎:
うんうん。一番は、ほんと超理想っすけど、誰も傷つけないようになれたらいいな、みたいな。あんまこういう話したことないけど、誰の存在も奪わず、奪われずに、そのままいてくれたらいい。
成太郎:
今は世の中的にも、自分の感覚として「はざまの時代」みたいな感じがしてて。SDGsやったりなんやったり、これから変わっていこうとするなかで、みんなどっちにいこうかなって。自然を大事にするのか、もっともっとお金を稼ぐのか。そこで、お互いあんまり衝突しないようにって考える人もいれば、衝突してわざと過激な表現をやったりする人もいる。いろんな、各々の意見があっていいと思うんですよ。
そのなかで、おれはなんかもう、なんて言うんかな、無理なんすけど、なるべく器みたいな感じになってみたい。受け入れる姿勢で向き合ったときに、自分にとって「めっちゃこれ嫌やわ」みたいなことって何が残るんかなとか、これは絶対やらんと気が済まんとか、やりたいって思うのはどこなのか。
思考停止したいわけじゃないんですけど、何かを言ったときに誰かが傷ついたり、なんか微妙な感じになるぐらいだったら、自分のことはあんまり、いてもいなくてもちょうどいいぐらいの存在になれたらいいな、みたいなのは最近思うんです。ハッピーになりたいな、とりあえず。めんどくさいことは、どうせ考えてもめんどくさいんやから。問題なんていっぱいあるから。みんながハッピーになるほう、楽しいほうでいきたいなと思う。おれも楽しいほうを選びたいし。
そうは言っても、なかなかなれないんですけどね。残っちゃうから、自我みたいなのが。
――その流れで聞いてみたいのは、たとえば今後技術が進歩して、瞬きしただけで撮れます、みたいなデバイスが一般に普及したとして。自分の意図を排除して、目に入ったものをそのまま記録できるじゃないですか。
でも、それっておもしろいのかなって思うんです。カメラを構えて撮るときに、どうしても入ってくる自分の意思だったり、撮りたいっていう気持ちについて、写真を日々撮る人はどう感じているのか聞いてみたいです。
成太郎:
どういう写真にしたいとか、どういうふうに見たい、感じ取りたい、伝えたいとか。なんか言いたいことは、ある。自分がデバイスになるってことだと思うんやけど。そこに意思っていうのが絶対にあって。
瞬間的な意思を逃したくないってことで言えば、瞬きで撮れたら効率いいよね。手にカメラを持って構える筋肉の動きよりも、脳から目までの信号のほうが速いから。瞬発的な写真になる。ぎゅーんってズームもできたら、構図の問題とかも解決されちゃうわけで。
でも、どんな写真にも、自分の意図したものと同時に、意図しないものも何かしら写り込んでいて。感覚、感情とか。それを通じて、自分のなかで “そもそも木って、水ってなんやったっけ?”とか、“生活ってどういうものだっけ?”みたいな問いも生まれてくる。そういう揺らぎは、もしかしたらフィジカル的なカメラを使うときのほうが大きいかもしれんよね。
――ああ、そうですね。カメラが手元になかったり、構えるのが間に合わなかったりして「撮れなかった」ことも含めて、次にまた写真を撮る意味が生まれてくるのかも。
――ちょっと自分の話なんですが、文章もきっと同じで。ChatGPTのようなツールを使えば、ある程度の文章は出力できると思うんです。でも、人の話を聞いて書くことは、その過程で問うたり考えたりする時間も含めておもしろい。その過程を効率化して短縮できるというのは、恩恵でもありつつ醍醐味を奪われるようで、ちょっとつまらない。それがやりたくて書いてるんじゃない?って思う自分もいるので。もしかしたら今後、活用する未来もあるかもしれないけれど、ほどほどにしたいなとは思います。
成太郎:
楽と楽しいの違い、みたいなね。おれもそれはすごいわかる。Stable Diffusion(画像生成AI)とかね、もちろん活用したらおもしろそうやし、そういうのとうまくお付き合いしてるアーティストとかさ、すごいなって思うけど。考えてる時間とか、つくろうって思ってる時間のおもしろさがあって、そこから自分のスタイルもできていくと思うから。その過程にデジタルのお友だちをわざわざ入れてやる必要がないぐらい、考えるのが楽しかったら別にいらんわけやし。
なんか行き当たりばったりな話なんやけどさ、この前東京行ったときに、なんかすっごい四角形やなと思って。窓からビルから、人の動きから、電車のくる感じとかもすごいカクカクしてて。
――なんとなくわかる気がします。そこで暮らしていた自分の形も、四角形だったような。
成太郎:
否定的な意味じゃなく、すげえなって。で、そこから有田に戻ってきたら、四角形があまりないことに気づいて。仕事にしても、アメーバ状の案件が多い。そのおかげで属人的になったりして、スライドできんやったり、より多く増やせんかったりとか、そういうのが結局、収入面でとか、取り組みをバーンと拡散させていくときの足枷になってる部分もあると思うんやけど。
成太郎:
それでも、四角形な仕事がないからこそ、一生懸命、一生懸命、自分のなかのオリジナリティを磨き続けて、誰もやったことない、誰も見たことのないものをつくる人もいて。なんとも形容しがたいようなプロダクトやったり写真、文章やったり、それぞれの表現が生まれてくる。それを四角形のスタイルに収めようとする人がいても溢れ出ちゃう、みたいな。そういう姿を有田でも見ると、人っておもしろいな、生きるのって結構自由やな、どうにでもなるんよなって気持ちになる。
でもそれってつまり、めっちゃがんばらんといかんし。四角形のボックスがきたほうが楽なときもあるから、そのときはあざっす!って引き受けて、すぐ開けてすぐ返す、みたいな(笑)。
――どちらがいい、っていう話でもないですよね。
成太郎:
そうね。とにかく、おもしろいほうがいい。おもしろい時間を増やしたいけん、それぞれの形がゴツゴツしてるのがおもしろかったりするもんね。だから、器用に、不器用に、バランスとって。そのバランスは誰も教えてくれんから、むずかしいところよね。
――協力隊の任期の3年を終えて、これからについてはどんなふうに考えていますか。
成太郎:
有田は好きだし、ずっといようと思えばこのままでもよくてさ。けど、仙人みたいになってしまっても違う気がするし。32歳ぐらいでいることのおもしろみもうまく使いたいな、とも思う。自分のことを誰も知らんところ、海外とかでどう転がっていくのか試すのが楽しいなって思う自分もいたし。いい感じのカオスを楽しみ続けられたらいいな。
何かを知りたいと思う。書籍やネットで調べ、回答のようなものを見つけて満足できることもある。
それで足りなければ、対象にもっと近づいていく。関連する場所を訪ね、話を聞き、触れ、味わい、考え、また話を聞いて…。
するとどこかのタイミングで、「わかった」と思う。頭のなかの引き出しをひらき、手にしたものを入れ、閉じる。その件については「わかった」ことにする。
けれども、本当は何もわかっていないのかもしれない。ましてや、「わかり合う」ことなんて、到底できないのかもしれない。
それでもなお、わかりたい、知りたい、何かひとつでも通じるものを見つけたいと思うからこそ、わたしたちは文章を書いたり、写真を撮ったり、人と会ったりして、終わりのない旅を続けているんじゃないか。
成太郎さんと話しながら、そんなことを思いました。そして、簡単に「わかった」つもりになってはいけないなと、あらためて。
わからないものと真摯に向き合う時間のなかから、おもしろい未来の種は芽生えるのかもしれません。
文章:中川晃輔
写真:橋本優(有田ダムやマイセンの森での写真)、壱岐成太郎(その他すべて)
成太郎、有田にいてくれて、ありがとう。
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壱岐成太郎のプロフィール
写真家。元有田町地域おこし協力隊・ローカルフォトグラファー。