2023.03.10

前に進むために。自分を知り小さな挑戦を続けよう【岩楯 忠介】

クリエイティブ 岩楯 忠介(株式会社ニコ)
前に進むために。自分を知り小さな挑戦を続けよう【岩楯 忠介】

あなたは大人になってどれくらい挑戦をしてきましたか?

 

子どもの頃は目の前を真っ直ぐに見ていて何にでも挑戦できていたのに、いつからか、一歩を踏み出すことをためらってしまっている。失敗する未来を恐れて「自分にはできない」と感じる瞬間がしばしば訪れる。

誰だって得意なことや好きなことがあって、苦手なことや嫌いなことがあるのは当たり前。でも、どうすればそんな自分の全てを受け止めて前へと歩みを進めることができるのだろう。

 

私がこの問いを考えるきっかけとなったのが、伊万里市でフリーのライターとして活躍をする岩楯 忠介(いわたて ただすけ)さんです。約6年前に妻の愛久美(めぐみ)さんの故郷、伊万里市に家族で越してきたいわゆるIターン移住者の1人。

愛妻家でもあることから、ご夫婦揃って多くのメディアに取り上げられてきました。また、伊万里の未来を考えるプロジェクト「まちの大学いまり」や、地域活性化に取り組む「伊万里高校キセキ部」の育成に携わるなど、まちづくりから教育分野まで多岐にわたる活動に取り組んでこられました。

佐賀県内では常に注目される存在であり続けてきた忠介さんですが、はじめて暮らす地域で様々なことに挑んできた背景には、計り知れない感情があったに違いない。私たちも地域の人たちも、実は本当の忠介さんをまだ知らないのかもしれない。

そんな思いから、今回は移住してからこれまで自分とどのように向き合って進んでこられたのかについて、同じく暮らしを佐賀に移した者の1人である草田が話を聞きます。

「自分が無理をせずに、生きやすい環境をつくっていけたらいいな」と話す忠介さん。

“無理をせずに、生きやすい環境をつくる”とはいったいどういうことなのでしょうか。今だから見えてきたという自分なりの歩み方を知るべく、忠介さんの素敵なご自宅兼仕事場を訪れました。

読んだみなさんにとって、足を踏み出すことがより軽やかなものになりますように。

 

いつも家族を思い浮かべながら、仕事をするようになった

 

佐賀に来る前は、東京の編集プロダクションでWEBや雑誌の作成に携わっていた忠介さん。その後独立して、人の繋がりがない地方で働くということは大きな決断だったはず。当時、どのような心境だったのでしょうか。

「東京にいた時に、もう仕事したくないなと思っていて。受注仕事だったので、この仕事があるから取材先に行ってくれ、いつまでに納品してくれと言われるんですよね。でもその後、世の中にいつ出てお客さんがどう思っているかとか、どんな反応があったのかは分からないんです」

まるでファストファッションのように、早く大量にこなしていく東京の仕事に疑問を感じていました。ちょうどそのタイミングに社会の状況がリモートを推進するようになってきて、家でできる仕事だったことから地方でも続けられるかなと移住することを決めたそう。実際に地域で仕事をするようになったことで、仕事に対する向き合い方に変化がありました。

「東京の頃は、飛んでくる大量の玉を心を無にして打ち返すしかなかった所を、今は1年後や5年後のことを見据えて企画を組み立てられるようになったし、相手に喜んでもらうにはどうしたら良いのかを考えるようになったから、意識がガラリと変わったかな」

自分や大切な家族が住んでいる地域だからこそ、より良くしていきたいという気持ちが自然に入るようになったそう。仕事をしながら家族の顔を思い浮かべない時は無いとか。

 

一方で地方ならではの課題も多くあり、現在でも奮闘している最中だといいます。

「どこでもできる仕事とはいえ、思ったよりも東京の仕事が残らなかったです。発注者側としては近くにいて、すぐにお酒飲めるような人にお願いしたいのが人情なんだろうね。あとは想定以上に、地方でデザインやライティングにお金を投じる企業が少なかった。当然ながらそれぞれを分けて発注をする仕組みもないので、企画の設計からデザインまでの全部を自分でやるか全くやらないか、どちらか一択なんだと気づきました」

ライター単独の仕事をする土壌が無かったことから、地域のニーズを発掘して自ら企画し、提案をするといった広告業をスタートさせるために、株式会社ニコを設立しました。

厳しい状況だったにもかかわらず、「やらない」ではなく「やってみる」という思考になれた背景には、忠介さんの原体験があります。

 

好きなことがやれるよう、常に主語を自分に

 

「サッカーがすごく好きだったものの、中学の部活の先生からなんとなく練習させられる指導法が嫌で、高校では部活に入らなかったんですよね。その代わり、クラスメイトと一緒に社会人サッカーチームを作ったんです。今ではウェブで簡単にできるだろうけど、当時は情報誌を通じて対戦相手を募集したりしていて、結果的に、高校卒業後もどんどん若い人が入ってくるものになりました。恐らくサッカー部に入っていたら3年間で辞めていただろうところを27歳くらいまで運営にも携わることができて。こんなに長く続けられていたのは、自分が好きでい続けられる環境を “つくってみた”からだと今も記憶に残っています」

自分の好きなことを好きでい続けられる場所を自分でつくることは、多数に流されがちな私たちにとって、勇気のいる行動でもあるはず。そんな時には自分のペースをしっかり持っておくことが大事だと続けて忠介さんは話します。

「僕は進学校に行っていたんだけど、実は落ちこぼれになってしまって。でも唯一国語は得意だったんです。子どもの頃から本がすごく好きで、小学校低学年には吉川英治の三国志全八巻を読破していたし、図書館の本はほとんど読んでいました。ある時に、校庭にみんなで遊びにいこうと誘われたけど、“本を読むから行くのやめるね”と伝えてみたんです。最初はリーダー格の子から遊びに誘われなくなったものの、実は他の子も言われるがままで、本当は別のことがやりたかったらしくて。それが、“自分の好きなことをやればいいじゃん”と強く思ったきっかけのような気がしています。高校の頃のサッカーにも通じるけど、勉強ができなくても好きなことを続けていたらすごく楽しかったです」

まるで静かな革命家のような、どこか自分の核を貫き続ける強さが忠介さんの“好き”の裏にはあることが伝わってきます。周りに求められるからではなく、自分がやりたいから、好きなことがやれるように自ら動いてみる。常に主語には自分がいることを確かめながら地域の仕事にも取り組んでいるといいます。

 

暮らしを移したことで本当の自分が見えなくなった

 

しかし、佐賀に移住をしてきた当初はそうなれず、 本当の“自分”との間にズレが生じて苦しくなった経験があったそう。

「僕は数字の2が好きで、自分自身を表していると思っています。サッカーチームを作った時も、キャプテンをサポートしながら背後で戦略をあれこれ考えるのが好きで。今も携わっている企画の大概が二番手のポジションです。でも伊万里に来て最初の2年くらいは、地域の声に答えようと一番に人前に出ていって進めることが多かったんです。東京での経験もあったので、ある程度は上手くできるかもという自負もありました。でも、自分のやりたいことや好きなことではないから限界が来て、途中からうまく回らなくなってしまいました

二番手であれば自分のやりたいことがやれる自由さがあってちょうどよかったのに、先頭に立つと責任や注目を一斉に浴びてしまう。その結果、自分が苦しくなっただけではなく、周囲にも迷惑をかけてしまったと、ぽつりぽつり当時の様子を続けて振り返ります。

「伊万里市が主催する企画に依頼されたので参加したことがあったのですが、参加者に市内の人が自分以外に誰もいなくて。結果的に僕だけで企画を進めざるを得ず、周りに無理を言って協力を求めることになりました。相手も乗り気ではなかったはずなので、嫌な思いをさせたでしょうね。やってはいけないことをしたなと感じています。その後も幾つか同じような経験をしたことがあり、その度に申し訳ない気持ちになりました」

自分が責任をとることができない場所で自ら風呂敷を広げるのはやめようと強く感じたという忠介さん。ちゃんと自分が健全な状態で責任をとっていくためには、まず自分自身を知る必要があると痛感したそう。

「仲良くしていた和尚さんが当時の僕を見て、“諦めるということは、自分の気持ちを明らかにすることですよ”と掛けてくれたその言葉がストンと腑に落ちたんですよね。他の人にも、伊万里に来てから自分の体重が増えたという話をしたときに、“心に鎧をつけているからじゃないですか。(体重を増やすことで)守っているんですよ”と言われたことがあって、これも的を射ているなと感じました」

あまりにも多くを引き受け過ぎてきてしまったことに気づいたという忠介さん。移住して環境が変わったことが、自分サイズの“ちょうど良さ”を捉える感覚を鈍らせていたのかもしれません。今背負っているものを少しずつおろしていけば、自分にとっての“ちょうど良さ”が明らかになっていく気がする、と諦めることの必要性を感じました。

地域で大きな企画を重ねて進めてきた印象とは打って変わって、本当の忠介さんが垣間見えたような気がしました。今の忠介さんにとって気持ちを明らかにする時の基準は、自分が健全であるかどうか。数字の2番でいられる場所で、自分のやりたいことや好きなことが気持ちとして入っているかで決めているそう。自分を知っているからこそ、取捨選択ができていると話してくれました。

小さな挑戦と失敗を続けて、生きやすい暮らしをつくっていく

 

そんな自分の生きやすさを模索しながら、地域がより良くなる仕組みづくりに励んでいる忠介さん。いずれ自分がいなくても前に進んでいけるような仕組みづくりを目指しています。

「メインで取り組んでいるものの1つに“伊万里の求人”というものがあります。求人も、広告と同じく都会の企業には勝てないかもしれない。だけど“取り組むのをやめましょう”じゃなくて、むしろ都会にない伊万里の魅力を伝えていこうとしています」

高校生の頃に好きなサッカーを続けたくてチームを作ったように、一見できなさそうな状況でも工夫次第で解決していける感覚が好きだといいます。やりたいことを話す忠介さんの表情はどこか少年のよう。

「恐らくこれまでに100個の企画に取り組んできたとしたら、97個くらいは失敗しているんじゃないかな。だからこそ、残った“伊万里の求人”の企画は本当になくてはならないものではないかと感じています。例えば伊万里高校のキセキ部の生徒たちが地元で就職する未来を描けたり、子育てが終わったお母さんが働き直すために県外ではなくて地元で働きたいと思えたりすると、地域はもっと良くなっていくはずです」

伊万里をより良い町にしようと同じ志を持つ仲間を増やしていくことで、あとの世代がこの町やそこで暮らしている自分を肯定できるようにしたいと言います。

「佐賀に無いからじゃなくて伊万里にこんな会社があるよ。めっちゃいいじゃん。そういう人が増えてくれたら、僕がいなくても世界はどんどん良くなっていく」

多くの挑戦をしてきたからこそ、忠介さんらしい在り方や目指したいことが明らかになってきた。そんな変遷を知ると、挑戦することはどこか自分を知って前に進むための通過点のような気さえしてくるのは私だけでしょうか。

これまでの話を通して、忠介さんの原動力や描く未来には大切にしたいと思うご家族や地域の人の顔がきっと浮かんでいて、そんな愛があるからこそ様々なことに挑んでこられたし、これからも挑み続けるのだろうと感じました。

そんな忠介さんは、なにかに取り組もうとしている人に向けて、励ますかのようにエールを送ってくれました。

「シリコンバレーとかでよく言われるらしいのですが、“スタートスモール・フェールファスト”(小さく始めて、早く失敗しろ)が大事だと思っているんです。先ずは小さくやってみて、上手くいかなかったら、それはやりたくないことや苦手なことなのかもしれないと受け入れ、別のことに挑戦してみることです。始めたことにこだわって、しんどい思いをしながら歯を食いしばる必要はありません。やってみることは、能力じゃなくて誰にでもできることだから、怖がらずに小さく小さく始めてみて」

 

最後に忠介さんにとっての“おもしろい未来”とはなんでしょうか。

「僕は大きな社会変化とかを目指しているわけじゃなくて、のんびりと平和に、妻がニコニコしていることが理想かな。元はというと、妻が好きで笑顔で過ごせると思って伊万里に来たんだから」

“好き”は、正義。好きの先には愛があって、暮らしの中で紡がれるその気持ちがご自身を突き動かしているに違いない。そんな自分を知っているからこそ、自分らしくいられる場所をつくっていける力があるし、揺るがない自分を持ち続けているのでしょう。

どんなことに挑戦しようと、自分を見失わないでいてほしい。だって、自分が一番大事だから。

聞き手・文章:草田 彩夏
写真:野田 尚之

岩楯 忠介(株式会社ニコ)のプロフィール

広告制作会社ニコ代表。地域人材の獲得と育成と交流を目的とする『全年代キャリア教育構想』を推進するため、高校生向け地域貢献活動『伊万里高校#キセキ部』、大学生向け求人活動『伊万里の求人』、社会人向け啓蒙活動『まちの大学いまり』『伊万里Iターン移住者の会』などを企画運営しておりますので応援よろしくお願いいたします。