有田町に暮らしていると、「文化」や「伝統」といった言葉をよく耳にします。
四季の豊かな日本に息づく、しきたり・様式・習慣。
長い年月によって洗練され、先人から受け継がれてきた”もの” や “こと”。
目まぐるしく移り変わっていく時代を生きる私たち。そういった古くから変わらない
文化に触れる時、ほっとした気持ちになったり、心の支えになったりすることでしょう。
「伝統文化をもっと暮らしの中に取り入れてみたい」
「私もその担い手になりたい」
そんな憧れを抱いている人がいたら、裏千家の茶道家・鳥谷 唯(とりや ゆい)さんのお話がきっとヒントになると思います。
有田町のお隣・武雄市山内町で「日本の暮らしを愉しむ茶会十二ヶ月」を主宰されている唯さん。日本文化に親しむ彼女がお茶の世界に飛び込んだのは、30歳のときのことでした。
知れば知るほどに魅了される茶の世界
佐賀市出身の唯さんは、高校卒業後、京都で4年間暮らしたそう。そのきっかけは伝統文化ではなく、「音楽が好きで、憧れのレコード屋さんが京都にあったから」
寺社仏閣のイメージが強い京都。じつはクラブやライブハウスも多く、音楽シーンも熱いそうです。唯さん自身もDJをされていたのだとか。(現在の着物姿とのギャップに驚き!)
その後、佐賀にUターンしてきて映像制作の仕事に就いたり、そこで出会った仲間と会社を立ち上げたり…密度の高い20代を過ごします。
そこから、30歳でお茶の世界に入ったきっかけはなんだったのでしょうか。
「もともと日本の歴史が学生の時から好きです。武将の生きざまに興味があったり、先人たちが一生懸命日本のために戦ってきた…そういった姿にぐっとくるものがありまして。それで歴史をたどっていくと必ず茶の湯がでてくるんですね。そこからお茶の世界に興味を持ちはじめて実際に足を踏み入れました」
武将や、戦い…今まで抱いていたお茶のイメージと違って猛々しい感じがします。
「日本の歴史の中で茶の湯と政治が密接につながっていた時代もあります。たった二畳の狭い空間で大名たちが密会するわけですよね。大名同士だけだとぶつかり合っていたけど、お茶を介するとコミュニケーションがとれる。戦国の世にあって、千利休が重役を担っていたというところにすごく魅了されました。
また、娯楽が少ない時代だからこそ、疲れた大名が癒しをもとめるのもまた茶の湯でした。そこでリセットして、戦いに戻っていくんですね。私もそういった何かと何かをつなげる役割や、場所をもちたいなと思って」
伝統文化の世界に足を踏み入れることに、敷居の高さは感じなかったですか。
「全然感じなかったですね。気になったことは、実際に体験しないと納得できないので。緊張もしたとは思うけど、知りたい気持ちのほうが強かったです。
ただ、知れば知るほど敷居の高さを感じることはあります。やってみて気づくことが多いですね。
私の先生は、御年90歳。常に弟子のことを考えていらして、何か困ったときにはすっと手を差し伸べてくれる。いい先生に出会えたことがとても大きいです。最初から希望の流派があったわけではなく、その先生にならって裏千家※でお茶をはじめました」
※裏千家…うらせんけ。千利休を祖とする茶道家元。当代の千玄室さんは16代目。茶道にはさまざまな流派があるが、表千家・裏千家・武者小路千家は三千家と言われている。
毎月の茶会が、伝統文化への入り口に
お茶をはじめて6年。唯さんは今年の4月から、「日本の暮らしを愉しむ茶会十二ヶ月」を主催しています。
Instagramをのぞいてみると、「精進料理を学ぶ茶会」や「竹細工茶会」「平安時代のお菓子づくり」 と、どの月の会も魅力的です。
「先人たちの知恵を残していくために、日本の昔からの手仕事と、お茶の世界を一緒に学べる場をつくっています。そこで学んだことを家庭に持ち帰ってもらって、日々の暮らしの中に落とし込んでくれたらいいなという思いがあります。参加者は女性が多いですが、男性が一人で参加されることもありますね」
月に一度の茶会をきっかけに、本格的にお茶の世界に飛び込んだ方もいらっしゃるそう!
「茶会にきていただいている方の中から、3人がお茶を本格的に始められました。有田で作陶されている方や、古民家に住まれていて家に床の間があるから、しつらえを知りたかったという人もいます」
最近はホームページやSNSで情報発信をする茶道や日本舞踊の教室もありますが、先生が高齢だと人づてに紹介してもらうしか参加の方法がないことも。唯さんの茶会が伝統文化への入口になっているんですね。
夫婦で話す、次の世代に残したいもの
3人のお子さんを育てながら、活動を続けている唯さん。
いずれかに専念するのではなく、両立することに強い想いがあるようです。
「もともと嬉野で日本茶のカフェをやっていたんですね。でも3人目がうまれてから、どうしてもお店にたつことが難しくなって。子育てと仕事のバランスに関しては、一旦諦めた部分もありました。
今は自分のペースでやりたいこと、伝えたいことができています。それにお茶の時間があるからこそ、子どもに余裕をもって接することができていると思います。
日本って戦争に負けて変わった部分が大きい。時代に合わせて変化することはもちろん大切で必要です。 でも、その中でも変わらなくてもよかったのではないかと思う日本の素晴らしさを子供たちにも見せたいと思うし、足跡を残したい気持ちがあります。子供たちが大人になった時、そう言えばお母さんって日本のために色々やってたね。私たちのために頑張ってくれていたねって感じてもらえるように」
両立できているのは、夫の憲樹(かずき)さんのサポートも大きい、とのこと。
憲樹さんはもともと、武雄市山内町三間坂でイタリアンレストラン「trattoriYa Mimasaka」を営んでいた方。現在はレストランの営業を終了し、コンサルタントとして嬉野の老舗旅館 和多屋別荘でピエール・エルメのカフェのオープンに携わるなど活躍されています。
夫婦でお互いの仕事について話されることはありますか?
「山を守っていかないといけないとか、次の世代に何を残そうかとか、そういったことを夫婦でよく話します。それぞれ違う仕事をしていて、違う方法で違う道のりだけど、思ってることの最終着地点が一緒だなと感じますね。子供たちの未来に残せるものは、しっかり残したいという共通点がありますね」
唯さんが考えるおもしろい未来
最後に…あなたにとっておもしろい未来とはなんですか?と尋ねたところ、「え!いきなりの質問で難しいですね…」と困惑しながらも、
「自分で考えて行動し、それが認められる社会になること…そんな未来…かな」と答えてくれました。
人によっては変化をためらったり、やりたいと思うことがあっても先送りにすることもあるでしょう。
音楽、映像、そしてお茶。人生の節目節目で迷いなく、シフトチェンジを繰り返してきた唯さんは、
”自分がおもしろいと、その時々に思うことを主体的に選ぶ”
常にそのシンプルなルールを徹底することで、新しい道を切り開いてきたのかもしれない、と感じました。
「みんなが脇役じゃなくて、主役になってほしい」と話す唯さん。時には自らの選択を後悔したり、失敗したと感じることはないのでしょうか。
「自分が選択したことに対して、後からもっとああしとけばよかったなとか、失敗したなとは思わないんですよね。その時その時で一生懸命考えて行動するじゃないですか。その結果うまくいかなかったとしても、頑張って行動したことをまずは自分が認めてあげないと」
過去にその道を紡いできた人にならい、歴史に学びながら、常に目線は未来をむいている。唯さんのお話を聞くなかで、私の背筋も伸び、視界が開けていくような気持ちになりました。
文章:長田 加奈恵
写真:壱岐 成太郎