2023.12.16

無いなら作る!ここが「おもしろい」の中心地【小松大介】

地域 小松大介
無いなら作る!ここが「おもしろい」の中心地【小松大介】

『おもしろいことをしている人と言えば?』

そう考えた時にすぐに思い浮かぶのが、小松大介さんだ。

SNSを眺めていて、地元でおもしろそうなイベントがあるなぁと思ったら小松さんが関わっていたり、そうでなくても顔を出していたりする。大袈裟ではなくて本当にそうなのだ。

それはコロナ禍でも変わらなかった。たとえば『レジ前おむかえアート』というプロジェクト。これは飛沫対策のビニールシートにアーティストやデザイナーがイラストや文字を書き込んで、街に彩りや活気を提供しようという試みだった。

写真:ご本人提供

小松さんは代表を務めていたが、実は発案者ではない。『小松さんなら何とか形にしてくれる!』と、アイデアを丸ごと渡されたものなのだそう。どうやら、小松さんのもとにはおもしろいことが集まってくるらしい。

どうしたらおもしろい日々を送れるのか、そのヒントを小松さんのお話から探ってみたい。

『史上最低の遊園地』!?

小松さんは伊万里生まれ。有田と縁ができたのは、有田工業高校に進学してからだ。

母校の校舎内を歩きながらの思い出話の最中、小松さんはデザイン科準備室の前で笑顔で立ち止まった。

「ここ。ここがデザイナーのスタートの場所」

幼い頃から絵を描くのが大好きだったという小松さんが当時目指していたのは、漫画家だった。ところが現実を知るにつれて、過酷さが見えてくる。それならば一枚絵に専念できるイラストレーターはどうかと考えたが、これも頂点の一握りしか仕事に繋がらない。

どうしようかと悩みながら職員室で本を読み漁っていた小松さんは、一枚の広告と出会った。

「それを見た時にもう本当に大爆笑して。こんなにおもしろい広告があるんだ!広告ってこんなに情報を詰められるんだ!って」

それは、ADC年鑑という日本を代表するアートディレクションが収められたデザイン年鑑の中にあった。

『史上最低の遊園地』とコピーが付けられたとしまえんの広告。いかにも来園を後悔している風な家族の顔がアップになっており、『乗ったと思ったらすぐ終わり』と、ジェットコースターが酷い紹介をされていたりする。そして一番下まで見ると、今日は41日、つまりエイプリルフールだというオチが付いているのだ。

『こんな広告を作れるようなデザイナーになりたい』

この時の『おもしろい!』から、小松さんのデザイン人生が始まった。

上京から一年足らずでUターン

今や町内で目にする広告のうち、かなりの割合を手がける小松さん。だが、最初から順風満帆というわけではなかった。

大学卒業後、ゼミの教授から「小松くんは東京に行ったほうが良いよ」と後押しされて上京。都会で仕事したいという発想は無かったものの、新卒で東京のデザイン会社に入社した。

しかし所謂ブラック企業だったため、一年も経たずに退職。その後就職活動をしたものの、経験も実績もない新人を採用してくれる会社はなかった。

「落ち続けてめちゃくちゃ凹んで、でも生活のためには稼がんといかんからバイトの面接も受けたけどそれも落ちて、また凹みまくって。金も無くなってどうしようもなくて、伊万里の実家に帰ったんよね」

そんな状況で、もうデザインの道は諦めようという考えがよぎったりはしなかったのだろうか。

「確かに考えてみれば、一度もこの業界はやめようとかは思わんかったね。まぁ、デザインが好きっていうシンプルな気持ちだけで走ってきたってことかなあ」

小松さんは自分の道のりを紐解く中で、原点を振り返る。

『自分はここかな』という道を見つけたんだと思う

「元々好きで絵を描いていて、いつからか描いたものを見せたらみんなが喜んでくれるのが嬉しくなって。自分の作り出したもので喜んでもらえるっていう体験が原点のような気がする」

漫画家からイラストレーター、そしてデザイナーへと目指すものは変わっても、その想いは変わらず根底にあり続けた。

「高校年生のあの部屋で見つけたんだと思う。自分の特性を活かして、人を喜ばせたりワクワクさせたりできる仕事はこれかなって。それまでは『どっちに行こうかな〜」ってふらふらしながら進んでいたけど、レールがガチャンってはまって進むべき道が一本に見えたような

だからそれ以外の道は考えなかったという小松さん。伊万里に帰ると有田工業高校の同級生に誘われて印刷会社に入ることになり、そこでIllustratorやPhotoshopなどのソフトを扱う技術的な基礎を学んだ。

もしも諦めてしまっていたら、続くはずの道はそこで途絶えていたということだ。

デザイナーからアートディレクターへ

その後の小松さんは、印刷会社で年学んでから福岡のデザイン会社に入社。そこからまた同級生の誘いで佐世保の印刷会社へ転職することになるのだが、その時には『アートディレクター』として入社した。

「自分はデザイナーというよりディレクターのほうが向いてるんじゃないかなとぼんやり思っていた時に、とある会社をデザイナーとして受けたら、社長さんに『小松くんはデザイナーじゃなくてディレクターだよね。でもうちの会社では僕がディレクターをやっていて、欲しいのはデザイナーだから、多分小松くんは違うと思う』って言われて。その時に、採用されなかったショックよりも『やっぱりそうよね』って自信になったんよね。それで同級生に誘われた会社にはアートディレクターとして入ることになった」

そうして小松さんがアートディレクター、誘ってくれた同級生がデザイナーとしてタッグを組み、佐世保のあらゆるデザインを手がける中で、ついにADC年鑑に掲載されたのだ。あの、としまえんの広告に出会ったADC年鑑である。

自分でおもしろくしていけば良い

「地方でもおもしろい仕事はできるってずっと思っとったけど、それがようやく形になった時に、やっぱり間違ってなかったって実感した。地方でもちゃんとしたクオリティの仕事なら評価されるんだって」

 『田舎だからつまらない』という言説が一番嫌いだと小松さんは笑う。

「田舎でもおもしろいことはできるし、田舎じゃなきゃできんこともある。つまらなかったら、自分でおもしろいことをすれば良かやんって思う。だから自分はおもしろいと思うことをやるし、おもしろいと思ったところにひょいひょい顔を出す。そのスタンスはここ20年変わっとらんね」

実は小松さんにはDJという顔もある。嬉野ディスクジョッキー実業団というDJ集団に所属して、様々なイベントでオーディエンスを盛り上げているのだ。それも小松さんにとっておもしろいことの一つなのである。

写真:ご本人提供

「自分が今住んでいるところが地元だと思ってて。そこで関わる人たちがおもしろいと思うことをしたいし、一緒に楽しいことをしていきたい」

そして次のステップへ

その後独立して『広告堂』という屋号で活動したあと、2022年の12月に株式会社イノベーションパートナーズに入社。本社を東京に持つ、地域創生やプロモーションなどを行う会社の有田オフィスで働くことに。

独立後の選択としては意外に感じるけれど、小松さんにとってはとても自然なことだった。

「イノベーションパートナーズのメンバーと一緒に仕事をする機会があって。その中で『誰かデザイナーを紹介してくれませんか?』って言われて、『自分はどうですか?』って()。そしたら『小松さんが来てくれるなら!』ってことになった。いつまでも若造の気分でいたけど、自分が前面に出てガンガン行くフェーズから移行せんといかんなって気付いたんよね。これからは若い人を後ろから支えていく立場になっていこうと思ったし、チームとしてみんなで何かを作っていくことがしたいなと思った」

後進を温かく見守る視線は、未来を歩む子どもたちにも向けられる。

未来へのまなざし

「有田の子どもたちって、こういう環境で自然と育まれた感性なのか、すごい!!と思う絵を描く子がたくさんいる。上手さというよりも目線が違う。そんな切り取り方するんだ!って本当にびっくりするけんね」

コロナ禍で子どもたちの楽しみが少ない中、PTA役員を務める小松さんは活動の一環として、佐賀出身の画家・ミヤザキケンスケさんと小学生たちで壁画を描こうという企画を立ち上げた。

写真:ご本人提供

その一環で、有田焼の新しい文様を考えようというワークショップも行ったそうだ。

「有田焼の文様って400年間ずっと変わっとらんけど、今と昔では生活習慣も文化もラッキーアイテムも全然違うし、打ち出の小槌とか言われても今の子どもたちはピンと来ない。それだったら今の時代に合う有田焼の文様を考えたら良いのにとずっと思ってたから、あっ!ここでやろう!と思って」

一通り文様の歴史や意味をレクチャーしたあと、自由に考えてもらったそう。その時にもおもしろいアイデアがたくさん出てきたらしい。

「覚えてるのは、UFOキャッチャーのアーム部分をデザイン化した子がいて。夢を掴むみたいな意味を持たせていて、おおっ!そこか!って。それはおもしろかったね」

そんな子どもたちの可能性を引き出したり伸ばしたり。学校では余裕がない部分を地域でフォローできたらと小松さんは考えている。

写真:ご本人提供

おもしろく生きるということ

日々の中におもしろさを見つけるにはどうしたら良いのだろう。そのヒントは、小松さんのデザイナーとしての引き出しの作り方にあった。

「自分の好きなことを突き詰めること。何か気になるものに出会った時に、どれだけそれに関することを見て聞いて調べて味わうか」

「たとえば音楽が好きなら、好きなアーティストが好む別のアーティストの曲も聴いてみたり、アルバムのアートワークを誰が手掛けているのかを調べて、その人の他の作品を見てみたり。そうやってどんどん深掘りすれば広がりが生まれるし、自分の制作に繋がるヒントを得られることもある」

それは、最初に自分が好きだと思ったものだからこそできることだと小松さんは言う。

「アンテナを張るってよく言うけど、アンテナを立てただけで満足してたら意味がない。自分で動いて受信していかんと、何も引っかからんけんね」

小松さんの思うおもしろい未来とは?

いつも「おもしろい」を作り、探し、飛び込んでいく小松さん。そんな小松さんが描くおもしろい未来とはどんなものだろう。

「自分がおもしろいと思っていて、なおかつ人をワクワクさせられる、そういうものが周りにたくさんある未来であってほしい。繰り返しになるけど、住んでいるところが地元だと思っとるし、自分の地元が楽しくないと嫌だから」

「自分が楽しくてみんなも楽しい。それが自分のベース。漫画を描いて『おもしろいのが描けた!見て見て!』って見せて回ってた小学生の頃から、多分全然変わっとらんもんね」

そう言って笑う小松さんは、今日も「おもしろい」の真ん中にいる。

小松大介のプロフィール

1975年佐賀県伊万里市生まれ。有田工業高校デザイン科、九州産業大学芸術学部デザイン学科ビジュアルデザインコース卒業後、東京・伊万里・福岡・佐世保のデザイン会社や印刷会社を経て独立。広告堂の屋号で地域に根差した広告デザインの制作やイベントの企画立案などを多く手掛ける。現在、(株)イノベーションパートナーズに所属し、活動中。妖怪と音楽を愛する双子座O型2人娘の父。